夜の帳が下りる頃

ぼんやりと窓の外を見つめていたナマエの耳に控え目なノックの音が聞こえてきたのは夜も更けて、彼女自身もう寝てしまおうと思っていた頃であった。意図しなくても様々な音を拾ってしまうナマエはその足音を捉えてはいたけれど、聞き覚えの無い足音だったため無視していたのだ。しかしこの部屋に、自分に用があると分かっては仕方が無い。少しばかり恐ろしかったけれどナマエは扉に向かって返事をした。

「……はい、」

「その、鯉登だ……、入っても良いか」

「え!?」

扉の向こう側から聞こえる控え目な声にナマエは面食らった。鯉登の事は例のチタタ大会の時に会ったきりであったが勿論覚えていた。だがまさか向こうから訪ねて来るとは思わずナマエは思わず間抜けな声を出してしまう。そうすれば扉の向こう側の気配が少し柔らかくなった気がして、慌ててナマエは返事をし直した。

「あ、ど、どうぞ!」

がちゃ、と鍵を外す音がしてゆっくりと開かれる扉の向こうには当然鯉登がいた。夜に異性の訪問を受ける事など無かった彼女は少しばかり身構えるが、その事を鯉登に悟られたのだろう。鯉登は気まずそうな顔をしながらナマエに近付いた。

「こんな夜更けにすまない……。その、何となく足がこっちに向いてしまった」

「え、あ……そ、そうなんですね」

「少し、話を良いか?二人きりが怖いなら、扉を開けておく」

言葉の通りナマエが唯一脱走できる扉を開け放つ鯉登にナマエは目を瞬かせた。いくら金塊の情報を持っていない自分だとしても、人質を逃がしてしまう可能性のある事をするなんて。彼女は内心何か裏があるのではないかと鯉登の心を読むために彼の顔を穴が開くほど見つめた。

「……人の顔を、そうじろじろと眺めるんじゃない。不躾だぞ」

「あ、ごめんなさい……。でも、私が逃げる、って考えないのかなと思って」

おずおずと考えた可能性をナマエが口にすれば、鯉登は不敵に微笑んだ。自信たっぷりなその表情がナマエを見つめる。表情がころころと変わりすぐ顔に出る鯉登にナマエは彼の事をあまり軍人らしくないと場違いに思った。

「私がそんな失態をしでかすものか。お前が逃げたって、すぐに捕まえられる。だから無駄なことはするな」

「は、はあ……。それでご用件とは……?」

仕方なく鯉登を招き入れた(別にここは彼女の部屋でも何でもないが)ナマエはそっとソファに腰かける。鯉登もナマエの隣に腰かけたため、二人分の重量にソファが僅かに沈んだ。隣に並んだ鯉登の石鹸の香りにどきまぎしながら彼の事を盗み見るように観察したナマエは兄との違いに少しだけ、その異性を感じて怯んだ。

よく日焼けした褐色の肌や体格の良い身体、きりりとした表情の何もかもが、一見優男に見えていた兄とは違い鯉登をナマエにとっての「男性」に見せた。異性を意識する事などほとんど無かったナマエでも、彼を異性だと意識する事は実に簡単であった。

「……どうした?」

鯉登の静かな問いにナマエは我に帰って慌てて首を振って誤魔化す。口になんて出来なかった。「あなたの事を男性として意識していました」なんて。

「何でもないです!ごめんなさい、ぼうっとして、」

「そうか」

少し遠い目をした鯉登は暫く何も言わずにナマエの隣で息をしていた。何も言わない鯉登に少し居心地悪そうに落ち着いて座る事の出来る場所を探すナマエ。もぞもぞと落ち着かないナマエに気付いたのか鯉登は切れ長の瞳を巡らせて彼女を見た。

「もぞもぞするな。女は淑やかにしろ」

「え?あ、ごめんなさい」

「なんなのだ……。お前にはこればかり言っているような気がする」

ため息を吐きながらナマエの事を仕方の無さそうな目で見つめる鯉登はしかし本題を捕まえたのか思い切ったように口を開く。

「どうしてこちら側に付かないのだ」

「……へ?」

ぽかんと虚を突かれたような表情で鯉登を見るナマエの間抜け顔に鯉登は鼻でそれを笑って言葉を続ける。それは教師が教え子に事実を教えるような、至極当然の事を口にする口振りであった。

「お前の兄はこちら側にいるだろう。それにいくら一枚岩でないとしても第七師団は国家組織である。お前たちは一体何と相対しているのか分かっていないのか?これはお前たちにとって『負け戦』でしかない。そして行き着く先は死だ。お前はこちら側に来る事が出来る理由がある。なのになぜ、こちら側に来ないのだ」

「……え、えっと、心配、してくれているんですか?」

「っはあ!?ば、馬鹿も休み休み言え!心配などするものか!!わ、私はただ、お前がわざわざ死ぬ事は無いと忠告してやっているだけだ!!」

それが心配という事なのでは、という言葉をナマエはすんでのところで呑み込む。何か言及すればその百倍言葉が返ってくる事が目に見えていたからだ。仕方なくナマエは言葉を呑み込んで鯉登の問いについて考えを巡らせた。しかし熟考するまでも無く彼女の中で答えは決まっていた。

「……簡単です。あっちに親友がいるんです」

「親友?」

ナマエの方にふい、と視線をやった鯉登に頷いてナマエは微笑んだ。柔らかな笑みに鯉登はたじろぐように視線を揺らす。

「アシパです。彼女は兄以外で私を受け入れてくれた最初の人なんです。私は彼女に救われたから、出来る限り彼女の助けになりたい。ただ、それだけです」

「……それは家族を捨てても成し遂げなければならない事なのか?」

鯉登の静かな問いにナマエは項垂れる。ナマエが思った通り、家族と親友を乗せた天秤は危うい均衡を保って揺れていた。きっとどちらに傾いてもおかしくないくらいに。

「兄の事は、大事です。凄く大事。たった一人の家族だもの。でも、兄にとって私は枷だったんじゃないかって、ここに来て少し思いました」

「枷?」

「私ここに来るまで兄のあんな笑顔見た事が無かった。兄はいつも大人びた表情で笑っていて私も兄はそういう人なんだと思ってた。……でも、」

無理矢理明るく吐き出される言葉は尻すぼみに小さくなっていく。口籠るナマエに鯉登は視線を遣る。ナマエは思い悩むように唇を引き結んでいた。

「私のせいで、兄は家族を捨てようとしている。私が家族を欲しがったから、兄は全てを捨てて私の家族になろうとしてくれている」

力無く伏せられる琥珀の瞳に鯉登は慌てたように彼女の方に身体を向ける。それから何か言葉を探すように口を数度開閉させた後、思い付いたようにその大きな手をナマエの頭に乗せた。

「わ、」

「……あの男はお前を、家族を枷だと思う非情な男なのか?」

「え?ち、違います!兄は凄く優しくて、」

「ならそういう事なのだろう。だ、大体、家族と他人の前で見せる顔が違うのは当然の事だ!それを愚図愚図とみっともない!女は明るく淑やかにしておけ!いいな!?」

「は、はい!」

何度か聞き覚えのある台詞だと思ったが、鯉登のあまりの剣幕に圧倒されたナマエは素直に返事をする。彼女のその返事に満足したのか、鯉登はそれでよろしいと言った風に笑って彼女の頭の上に乗せた手を何度か乱暴に動かした。

「ふん、お前がこちら側に来ればあの男も少しは静かになるかと思ったが、こちら側に来る気が無いというのなら仕方が無い。お前の兄をそちら側にやる。五月蠅くて敵わんから持って帰れ」

「あ、あはは……兄がいつもご迷惑をおかけしてます……」

苦笑するナマエはふと、不思議そうな目で鯉登を見た。大きな琥珀色の瞳に鯉登の顔が映る。純粋なその瞳が彼女の高潔の証のような気がして鯉登は思わず喉を鳴らした。

「あの、それを聞きに来るためにわざわざ……?」

「わ、悪いか……。気になって、いてもたってもいられなくなったのだ……。分かっている!こんな夜更けに女の部屋を訪れるなど不躾だという事くらい!」

「え?いや、別にそこは気にしてませんけど……」

「はあ!?」

ナマエの思いとは見当違いな方向に自責の念に駆られている鯉登にナマエは慌ててそれを否定しようと口を開いたが、鯉登の信じられないものを見るような目に圧倒されて黙り込む。なぜか顔を赤らめてわなわなと震える鯉登にナマエが首を傾げた時だった。

「ば、馬鹿か貴様!!恥じらいを持て、恥じらいを!!こんな夜更けに男を部屋に入れてあまつさえ『気にしてません』だと!?破廉恥な!というか失礼な!少しは気にしろ!!」

「は、はい!!」

理解不能なくらい興奮している彼にナマエは意味も分からずにこくこくと頷く。その返答に漸く落ち着いたのか鯉登は未だ息を荒らげながらも、大仰に深呼吸をした。

「と、とにかく!今後このような事はしないと約束する!だからお前も夜半に男を部屋に入れるな!分かったな!?」

「は、はあ……」

「返事が小さい!」

「はい!」

「っ帰る!」

どうして怒られているのかも分からないままナマエはいかり肩で部屋を後にしようとする鯉登の背を追いかけた。鯉登もナマエの気配に気付いたのか不審げな顔で振り向く。

「……どうした」

「あの、おやすみなさい」

「…………!……お、おやすみ」

気恥ずかしそうに目を逸らしながら就寝の挨拶を口にする鯉登にナマエは笑った。そうしたら鯉登の耳が少し赤くなったような気がして、ナマエはまた首を傾げて微笑んだ。

コメント