ナマエが全てを話して、そして全員が「全員で」旅を続行する事を半ば強引に納得した後も、やはり一行の間に流れる空気はともすれば重いものになりがちであった。それはインカラマッが示したキロランケへの疑念のせいだけでなく、ナマエと尾形の間のどことなくぎくしゃくとした雰囲気のせいでもあった。
ナマエも尾形もお互い絶対に視線が絡まないようにお互いを気にしている、だが一行には理由が皆目分からない。唯一つ、白石を除く一行に分かるのは、今まで鳥の雛のように尾形を慕っているかのように見えたナマエが急に尾形を避け始めた、という事だけであった。
「…………?」
屈斜路湖近くのコタンを出発して新たな刺青の囚人、都丹庵士へ奇襲をかけようとする杉元たちを追い掛けるナマエはふと、後ろを振り返った。何か嫌な予感のような、人の気配のようなものが近付いているような気がしたからだ。
人並み外れた視力と聴力を持っているナマエはその分生物の気配には敏感である。そして生い茂る木々の影に生物の気配を見た気がしたのだ。隠れてこちらを窺うような、何者かの気配を。しかし。
「どうした?」
「っ!?」
気配を手繰ろうとして、背後から掛けられた声に肩が跳ねた。それはナマエにとって今一番聞きたくない声で、そのせいで探ろうとした気配を彼女は見失ってしまった。怖々と振り返ったナマエの視線の先には、やはり尾形がいた。
尾形は怪訝そうにナマエの視線の先を見ている。まるで「何事も無かった」かのような顔で接してくる尾形にナマエは怯えるように顔を背けた。
「何でもない……、気のせい、だと思うから……」
小さな声で絞り出すようにそれだけ口にしたナマエは耐え切れなくなったように尾形の横を擦り抜けて白石の隣に並ぶ。気遣わしげにナマエに一言二言、言葉を掛ける白石に笑って応える彼女の横顔を、尾形が目を細めて見つめていた事など知りもしないで。
苦々しそうな顔で己を睨む尾形の視線を背中に感じながら、白石は足元の悪い道をナマエを導くようにさり気なく彼女の手を取った。
「……大丈夫?あいつに何も言われてない?」
「大丈夫だよ……。でも不自然過ぎるよね。今更ちゃんと話し合う機会も見付けられないや……」
疲れたようにため息を吐くナマエに白石も困ったように息を吐いた。時が解決してくれるのか、或いは何か転機が訪れるのか。いずれにせよ「解決せねばならない問題」は山積みであった。
***
嗅ぎ慣れない硫黄の香りにくらくらと眩暈がして、ナマエは軽く頭を振った。目的地の温泉旅館について暫し腰を落ち着けた後、男連中は温泉に浸かりに行ったようであった。アシリパやインカラマッは部屋に残っていたようだったが、ナマエは少しばかり考え事をしたくて部屋を抜け出して外を歩いていた。
頭に過ぎるのはあの番屋での事と、谷垣に言われた事と、尾形に庇われた事と、それ以上に「何も変わらない」尾形の事だった。考える事が沢山あって、それなのに何一つ良い方向には向かわない。兄の事も、踏ん切りをつけた筈なのにともすれば迷ってしまう。どれもこれもが中途半端でナマエを苛む。
「…………、はあ」
息を吐けば、それに呼応するようにさわさわと風が木の葉を揺らしていく。月明かりの少ない夜ではあったがナマエには問題は無い。何かに呼ばれるように、彼女は山を分け入って行く。琥珀の瞳は僅かな明かりを反射して爛々と輝いた。風に耳をそばだてれば森に潜むもの全ての呼吸が聞こえた気がしてナマエは目を瞑った。そして、聞いた。
屈斜路湖近くのコタンを出発する時にも聞いた妙な甲高い音を。
「……?」
その音に導かれるようにして、彼女は更に山を分け入る。草を踏み締める音に、段々と音は近くなる。その音に少し違和を感じ始めた時だった。
「っ!?」
突如として口を塞がれて木陰に引き摺り込まれた。しかし余りに突然の事に驚きで声も出ず、それでも逃れようとするナマエの耳許に何者かの唇が寄せられる。
「静かに、俺だ」
「……、おがた?」
それは間違いなく尾形であった。しかし明らかに服を着ていない彼にナマエは目を白黒させる。全裸に銃だけ携えた彼の恰好に困惑を隠せないナマエに尾形は苦々しい口調で囁く。
「都丹庵士の襲撃を受けた。奴らは音で俺たちの居場所を探ってる。見つかりたくなきゃ静かにしてな」
緊迫した状況に静かに頷くナマエを安心させるようにその頭に手を置いた尾形はナマエに「絶対にここを動くな」とだけ言い残して移動を始める。ナマエはその背を呼び止めたくて、かと言って大声も出せず離れて行く尾形の背を見送るしか出来なかった。
そうして幾許の時間が経っただろう。少しずつ白み始める空にナマエは覚悟を決めた。都丹庵士とその仲間たちが盲目の集団であるなら夜明け以降はナマエたちの方が有利なのは明らか。今なら少し移動しても大丈夫だろうとナマエは踏んだのだ。
そしてカムイの目と耳を使って辿り着いたのが廃旅館だった。ご丁寧に扉が開いていて、入り口には見慣れた人影が見えた。
「アシリパ!」
「ナマエ!良かった!心配していたんだ!」
再会を喜び合う間もなく、ナマエはアシリパの制止を振り切って旅館の中に転がり込んだ。
咄嗟に入り込んだ旅館の扉が、背後で勢いよく閉まる。退路を断たれたのは分かっていたがナマエには関係なかった。彼女には全てが見え、そして聞こえた。どこに誰がいるのか、そして誰に危機が迫っているのか。確かに、無闇に動けば自分に危険が迫るのは目に見えていた。そして与えられた機会がたった一度だけだという事もまた、彼女は分かっていた。たった一度、彼らの気を逸らして杉元たちに「形勢逆転」の機会を与える。自らの使命を確認してゆっくりとナマエは杉元たちの気配を捜して移動する。そして部屋の中ごろに入ったところでその気配を見付けた。
しかしナマエは見た。尾形の背後に迫っている男の気配を。尾形は未だそれに気付いていない。そしてナマエはそれに気付いてしまった。
「っ、こっち!!」
声を出し、足音を立てて移動すれば瞬時に気配が自分に向かって来るのをナマエは感じた。ほんの僅かの光源からナマエは彼らの顔を見た。その目に覆いをしているところを見ると、やはり彼らは盲目なのだろう。そう結論付けたナマエは予め手に持っていた石を幾つか放る。耳が良い分彼らはナマエが作る音に僅かに翻弄されると予想したのだ。幼い頃の自分がそうだったように。そしてその数秒を、ナマエは稼ぐだけで良かった。
銃声がして、生温かいものが頬を掠めた。一人分の気配が消えて、それから奥の部屋で乱闘の音が聞こえる。慌てて立ち上がろうとしたナマエだったが、新しい気配がすぐ後ろに立っている事に気付いて戦慄した。死の恐怖に体温がすっと下がっていく気がして硬直する。しかし気配は動かない。そして。
「久し振りだな、ナマエ嬢」
「っ!?ひ、土方ニシパ!」
「後はこちらで何とかしよう。君はここにいなさい」
真っ暗闇(ナマエにはあまり関係ないが)をまるで見えているかのように歩く土方の背を見送りながら、ナマエは弾む心臓を抑えるように胸に手を当てる。死の恐怖をこれ程強く感じた事は無かった。それでも、身体が勝手に動いたのだ。尾形に危機が迫っていると気付いた時に。
そうこうしている内に部屋の向こうの乱闘は収まったようで静かになっていた。いつの間にか合流していた牛山が壊した壁のお陰で朝陽が差し込む小屋は明るい。部屋の向こう側から、仲間たちが(全裸だが彼らの事を酷く心配していたナマエには無問題だった)やって来たのを見て、ナマエはほっと息を吐いた。
「あ、皆……よかった、無事で、」
微笑むナマエに片手を上げる杉元の横を尾形が通り抜ける。近付いてくる尾形に慄くように身体を引いたナマエだったが、それよりも尾形が彼女を捕らえる方が早かった。
「何してやがる!!」
ナマエの耳がじいん、と痺れた。それ程の大声だった。余りの大声に涙すら滲ませるナマエの胸倉を掴むのは尾形だった。尾形の顔は感情を上手く制御できていないのか、様々な色を湛えていた。そしてナマエは、久し振りに、尾形の瞳を見た気がした。いつも昏かった尾形の瞳がどうしてかこの時ばかりは色のあるように、ナマエには見えた。
「え、あ、あの、おがた、」
「自分が何したのか分かってんのか!?死んでてもおかしくねえんだぞ!」
「で、でも、私は皆より見えるから、大丈夫かなって、」
「飛び道具持ってる相手が見えたからどうした!?馬鹿が!!」
吐き捨てるような言葉と共に、ナマエから手を外した尾形は足音も荒々しく小屋を出ていく。残された面々はただ顔を見合わせるだけだった。ナマエに至っては呆けた様に目を見開いてその場に座り込んでいる。しかしただ一人、土方だけは含み笑いを隠しもしない。
「坊やが中々、成長したじゃないか」
意味深な言葉に首を傾げる牛山に、都丹は何かを察したのかナマエのいる方に顔を向けて唇を持ち上げたのだった。
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