警報の鳴り響く中、向かい来る敵を掻い潜り降って来る瓦礫を避けながら、漸く仲間たちと合流したナマエはインカラマッについて監獄の屋根に上る。上がった息を整えながら見たのは囚人服の男と杉元に間違い無く、ナマエは不可思議な恐怖に身を震わせた。そして最後の最後に感じた嫌な予感は現実のものとなって彼女に襲い掛かった。
双眼鏡など無くても、ナマエにはつぶさに見えた。不自然に揺らいで体勢を崩すのっぺら坊と、折り重なるようにして倒れる杉元の姿を。絶句するインカラマッの隣で、ナマエは咄嗟に銃弾の飛んできたであろう方向を見た。そして、息を呑んだ。
「ナマエちゃん!アシリパちゃんを連れて逃げてください!どこか遠くに!誰にも見つからないところに!」
懇願するようなインカラマッの叫ぶ声に、意識を取り戻すようにアシリパを見つめたナマエは、親友の目に浮かぶ涙を見て強く首を振った。
「私は行けない!杉元のところに行ってくる!!」
言うが早いか身を翻して屋根を降りて行くナマエを制止するようにアシリパとインカラマッの声がするのにナマエは振り返らなかった。梯子を下り切った時、ナマエの様子に怪訝そうな顔の谷垣と白石だったが、すぐにキロランケやアシリパたちが下りて来た事で事情を察したらしい。二人の間に動揺が広がったのがナマエにも分かった。
「私は杉元のところに行ってくる。先に行ってて!」
時間が惜しく、それだけを言い残して杉元のところに向かおうとするナマエであったが、強い力で引き留められて振り返った。彼女を押し留めたのは谷垣であった。
「俺が行く。お前はアシリパと……」
泣き叫ぶアシリパの声に呼応するように谷垣は決意を口にする。危険だと警告するインカラマッであったが、それよりもナマエの声が彼女の声を掻き消した。
「嫌だ!私も行く!行かないと、後悔する……!」
叫ぶような声だった。この世に存在する痛みや苦しみを凝縮したような叫びに、谷垣は圧倒されて何も言えなかった。きっとそれは周りも同じだったのだろう。最早制止する声も無く、谷垣とナマエは顔を見合わせて頷いて、そして駆けて行った。それを見送るしかないアシリパは、ナマエの背中が遠く遠く離れて行くのを見ている事しか出来なかった。
息が上がるのも構わずに全力で走る谷垣は横目でナマエの表情を窺う。強張った表情は動揺を隠し切れていない。屋根の上で彼女は何を見たのだろう。そう、頭の片隅で思案しながら、谷垣はただ走った。きっと数分にも満たない疾走だったのに、それは何十分にも感じられた。
物陰に身を隠しながら慎重に、しかし素早く動いて倒れている杉元の目の前に来た時、不意に谷垣は少女に手を取られた。
「谷垣ニシパ……」
ナマエの小さな声は、砲弾の炸裂する周囲から反発するように浮かび上がって谷垣には聞こえた。ナマエは呆然とした表情で虚空を見つめてそれから確固の表情を作って谷垣を見た。
「もし、ね。私が斃れても絶対に杉元を救ってくれると約束して。……きっと私じゃ、一瞬しか時間を作れないから」
「っ、どういう事だ、ナマエ……!」
理解の能わないナマエの言葉に顔を歪める谷垣にナマエは笑った。とても美しく。照明弾に照らされたその顔は、谷垣が見て来た少女を一人の女に見せた。
「杉元は、あの子の救いだもの。…………私にとっての、『彼』のように」
そして、ナマエは谷垣から顔を背けて、物陰から一歩を踏み出した。ゆっくりとした動きなのに、谷垣の手は彼女の肩を掴み損なって、そして、ナマエは静かに杉元とのっぺら坊を庇うように佇み、銃弾の飛んで来た方を見上げる。
新月の夜が嘘のように明るい夜、喧騒と機関銃と悲鳴と怒号とその他あらゆる音がナマエの鼓膜を突き上げていく。生命の終わる音を聞きながら、ナマエは見た。それは確かに彼であった。表情の無い顔で彼女を見て、確かに銃口を突き付けている尾形の姿を、ナマエは見た。
尾形の視線を、息遣いをナマエは感じていた。尾形と目と目が合い、視線が絡みそしてその瞳の色まで分かるような気さえした。そうしたら自然と、本当に自然とナマエの琥珀の瞳からは一筋涙が零れ落ちた。それは彼女自身無意識であったため、ナマエは己が泣いている事にさえ気が付かなかっただろう。涙は後から後から溢れ、彼女の白い頬を濡らした。
流れ落ちる涙をそのままに、ナマエはただ尾形を見つめていた。尾形も彼女を見ていた。まるで視線で会話するかのように、二人の間には周囲の騒音をも超えた音があるかのようだった。世界から音が消えたように、世界に二人しかいないようにナマエは感じ、尾形にもそうであるよう願いさえした。
しかし無音の対話は呆気無い程簡単に終わりを告げた。乾いた銃声が聞こえた時には、ナマエの頬を何か鋭くて熱いものが通り抜ける。発砲されたのだとナマエが遅れて気付いた時には尾形は次の弾薬を装填していて、彼女は悟った。
もう、戻れないと。
ナマエに照準を合わせるように銃を構え直した尾形の目がもし、神より与えられた物だったとしたら、彼はきっと彼女の唇が動くのを見ただろう。別れを知ってたった一言、彼女は唇を動かした。もう二度と、伝えられないだろう言葉を。伝えようと心に決めていた言葉を。
たった一言。
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