スチェンカとやらが始まるまで、ナマエと杉元たちは引き離される事になった。ナマエを捕らえた男たちの言い分は一緒にしておけば交わした約束が違えられる事は疑いようが無いというものであった。確かに普通であればそうなのかもしれないが、今の杉元たちにとってナマエだけが男たちの話に乗る切り札ではない。それを特に鯉登は月島を介して訴えた訳であるが、彼らがナマエと情報を擁している以上力関係は歴然としており、ナマエは敢え無く連れて行かれてしまったのであった。
連れて行かれた先はそれ程広くはないが清潔そうな小屋であった。てっきり碌な扱いを受けないだろうと予想していたナマエにとってみればそれは予想外の展開であった。彼女を連れて来た男たちもナマエの拍子抜けに気付いたのだろう、鼻を鳴らして彼女を笑った。
「大人しくしていれば悪いようにはしない」
「私たちの言葉が、喋れるんだ……」
自分たちとは違う風体の男たちの口から自分と同じ言葉が吐き出されるのは少し奇妙な気がして目を瞬かせるナマエに彼らは可笑しそうに口端を緩める。
「何もそれ程驚く事ではないだろう。君こそ他所の国の言葉を話せないのか?君の中にはアイヌとは異なる血が流れていると見た」
「……どういう事?」
言われた言葉の真意を測るように目を細めるナマエに、男の方が不思議そうな顔をする。
「君の瞳の色は狼のそれだ。その瞳を持つ人間が多くいる国を、俺たちは知っている」
「…………、」
「君の父親か母親に、その国の者がいるのではないかと思っただけだ。勘違いであれば、無視してくれ」
何も言わないナマエに男は興味を無くしたのか、彼は葉巻を咥える。男はリーダー格なのか、周りの仲間に一言二言ロシア語で何かを呟くと、取り巻きたちがすぐに動き出した。ナマエが怪訝な顔で男を見れば、彼は葉巻を咥えたままの不明瞭な音で「拘束を外させよう」と彼女に伝えた。
「……ありがとう、」
「別に我々は君を借金のかたか何かで攫ってきた訳ではない。正当に契約が終われば君の事も解放するさ」
当然のようにそれを口にした男を見つめたまま、ナマエは小さく頷いた。それでも、どこか浮かない顔のナマエに、男は立ち上がると彼女に向かって手を差し伸べた。
「おいで。君の価値を高めに行こう」
訝しむナマエであったが恐る恐るその手を取る。男はナマエを誘って、部屋を出ていくのだった。
***
日が落ちて、漸く時間になったという事でスチェンカの会場に案内された杉元たちはその迫力に一時圧倒された。屈強な大男たちのぶつかり合う熱気や迫力はまさに「壁」対「壁」で。杉元たちを案内している酒場の主人も興奮を隠し切れない様子だ。
「それで?ナマエはどこにいるのだ?無事を確認するまで私はこんな野蛮な競技には参加しないぞ」
きょろきょろと辺りを見回す鯉登に月島と杉元がため息を吐くのを谷垣は聞いた。その時だった。少しおどおどとした、聞き覚えのある声を彼らが聞いたのは。
「あ、あの……みんな……、」
全員一斉にそちらを向いて、一斉に目を剥いた。そこにいたのはナマエであって、ナマエではなかった。
「え、ナマエ、さん……?」
「ナマエ……!?一体その恰好は、」
「あ、や、やっぱり似合わないよね!?アイヌの服は目立つからって、着替えさせられたんだけど……」
まるで西洋人形のような出で立ちのナマエは困ったように自身の纏っている服を見下ろす。彼女がいつも着ているアイヌの伝統的な服に比べたら、幾分も機能性に劣るその服は、しかしナマエの未発達な身体の稜線を浮き彫りにさせて、逆に不安定な色香を醸し出す。いつもは無造作に纏められてマタンプシで隠れてしまっている艶々とした浅葱鼠色の髪も丁寧に結い上げられていて、更には化粧まで施されて元々はっきりとした目鼻立ちのナマエの顔を更に華やかで見栄えするものに仕上げていた。
「こ、ここまでする必要あるかな……?」
「当たり前だろう?君はいうなればゲームの賞品だ。可能な限り賞品の価値を高めるのも我々の仕事だからな」
困ったように眉を下げたナマエであったが、不意に現れた酒場の主人の仲間、もとい、彼女を連れ去った男たちの登場に不可解そうに首を傾げた。
「よく分からないけど、」
「君は王女か姫のように座っていれば良いんだ。そうすれば野蛮な男たちが君を救うために『壁』になるという訳だ」
「…………」
男の言葉に少し不満そうな顔を見せるものも言い返せないのか俯くナマエであったが、杉元側では肝心の、「誰がスチェンカに参加するのか」という話で揉めていた。最初は杉元だけの話だったのだが。
「どの道日本人だけではロシア人には勝てん」
という酒場の主人の言葉が全員の対抗心に火を点けたせいで、全員が参加する運びとなってしまったのだった。
(あつい……、)
信じられない程の熱気に(元々それ程暑さに強くない)ナマエはくらくらとした眩暈が襲ってくるのを止められない。歓声はナマエの敏感な耳を殴るように襲うし、本来ならばここにいるのは立っていられないくらい苦痛だった。それでも、ナマエは見届ける責任があると思った。半分は自分のせいで彼らはここに立っているのだから。
「戦場」に向かう彼らの背を、ナマエは見送る事しか出来ない。ナマエには戦う術が無く、彼らに追い付くにはその背は遠過ぎた。手を引かれなければ何も出来なくて、足を引っ張ってばかり。
(やっぱり、ついて来るんじゃ、)
俯いて唇を噛み締めた時だった。この場に相応しくない、柔らかな優しい声音が自身の名を呼んだ事に、ナマエは顔を上げた。そこにいたのは鯉登であった。
「鯉登、ニシパ」
「ナマエ。心配するな。他の奴らはどうか知らんが、私は強い。あんな生白い男たちなど私一人で十分だ」
「……、うん」
「だからな、ナマエ。私だけ応援しろ。いいな?」
微笑んだ鯉登はナマエに施された化粧を落とさないようにそっと彼女の頬に触れる。硬い指先はあたたかくてその感触に目を細めるナマエに鯉登はそっと顔を寄せ、いつもはマタンプシで覆われている彼女の額に小さく唇を落とした。耳を突くような歓声が一際大きくなったのをナマエはどこか他人事のように聞いていた。
「……その恰好、似合っているぞ」
僅かに頬を染め離れていく鯉登を驚いたようにナマエは見つめる。鯉登はすぐに背中を向けてしまってその表情の程は彼女には判別できなかったが、恐らく自信に満ちた顔をしているのだろう。呆れたように「戦場」に戻る彼を迎え入れる杉元たちに向けて彼女は叫んだ。「応援している」と。
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