月明かりの下で

銀色の月の光が反射する紙の上。キロランケは心ここにあらずといった様子の尾形の横顔を彼には気付かれないように眺めた。尾形の右手に握られた少し縒れた紙が写真である事は疑いようが無かったが、キロランケの座っている角度からは一体そこに誰が写っているのかは視認は出来なかった。あくまで視認は。

「……後悔してるのか?」

夜も遅く焚き火を囲んでいるのはキロランケと尾形の二人だけ。しめやかに落とされた問いに尾形は隠すように写真を懐に入れると、キロランケの問いの真意を探るように目を細めた。

「後悔?どういう意味だ」

「それはお前が一番分かっているだろう。ナマエの事だ」

ナマエ、その名前にぴくりと肩を揺らした尾形に笑みを深めたキロランケに対し、尾形は面白くなさそうに目を細めた。それでも先ほど自分で入れ込んだ写真を懐の上から押さえる所を見ると、その写真の被写体も想像は出来そうな物である。

「連れて来なかった事、後悔してるんだろう」

「……別に」

地を這うような低い声は彼の言葉と内心が一致していないのは明らかで、キロランケは苦笑を隠せない。しかし尾形の一睨みで表情を元に戻すと肩を竦めた。

「断られたって言っても、匂わせた程度だったんだろう?あいつにははっきり言ってやるぐらいでないと、」

「…………それでも、あいつはアシパを選んだ」

キロランケの慰めにも満たない言葉を遮って言葉を吐き出した尾形は静かに息を吐くと煌々と輝く月を見上げる。銀色の冷たい月明かりは日を追うごとに厳しくなる樺太の寒さを視覚的に増長しているようで尾形は再び深く長く息を吐く。凍り付くような白い息が尾形の口から零れ、清涼な空気の中に溶けていく。その行方を探していた尾形は空気を裂くような忍び笑いに目線をそちらに遣った。おかしそうに笑うキロランケの方へ。

「何がおかしい?」

「いや……、そんなにナマエの事が好きかと思ってな」

訝しげな尾形にキロランケは未だ忍び笑いを隠そうともせず、視線をアシパたちが寝ている方へと向ける。静かなそこで今はただ安らかに寝息を立てているだろう少女の事を想って。

「そういうんじゃねえ、……ただ、」

「ただ?」

「あいつがそれ程に、アシパに肩入れする理由が分からねえ」

キロランケから見ればそれは十分に嫉妬の類であったが、敢えてそれに言及する必要も無いだろうと彼は薄く微笑むと、間を持たせるように焚き火に幾本かの木をくべた。一瞬舐めるような焔が揺らめいて燃え上がり、また落ち着くのを待って彼は小さく口を開いた。

「ナマエがコタンでどういう扱いを受けていたか聞いた事あるか?」

小さく首を振る尾形にキロランケは少しばかり遠い目をする。あの日、彼女に初めて会った時の事はキロランケにとっては酷く遠くて懐かしい思い出のようでいて、昨日の事のようでもあったのだから。

***

スチェンカを制した杉元たちは握手やら何やらを求める観客に囲まれてしまい、その群衆から離れてナマエは一人ぼんやりと立っていた。胸に広がる安堵をそのままに彼女が杉元たちに合流しようと群衆の切れ間を探していた時であった。

「良いスチェンカでしたな」

「え?」

唐突に日本語で話し掛けられ振り返ると、そこには随分体格の良い男が立っていた。話し掛けられるまで接近に気付かない事などナマエにとっては珍しく、戸惑いながらも頷くと男は微笑んで手で外へと続く扉を指し示す。

「ここはまだ掛かるでしょう。どうですかな、少しばかり散歩でも」

「え、でも、」

「大丈夫、小屋を一周するだけです。心配なら彼らの一人を連れてきても良い」

一瞬視線を一行に投げても、まだ杉元たちは囲まれていてナマエは少し悩んだ末に小さく頷いた。危険を感じない訳では無かったが、何故か男にはついて行きたくなるような、そんな惹き付けるような魅力があった。

「申し遅れました。岩息舞治と申します」

「ナマエ、です……」

土を踏み締める音が静かな夜を切り裂いて響く。ゆっくりと普段以上に時間をかけてスチェンカ小屋の周りを歩く二人の頭上には柔らかな光を零す月が輝いている。眩しいくらいのそれにナマエが目を細めた時、隣を歩いていた岩息が不意に立ち止まった。

「……?」

「初対面の相手にこのような事を言うのはブシツケかとも思ったのですが……、」

ただならぬ岩息の雰囲気に身構えるナマエに岩息は彼女の瞳を見た。彼の瞳に映る純真なまでの透明な輝きはまるでナマエの内心を映す鏡のようで、ナマエは彼女自身忘れてしまった全てを見透かされそうな恐怖に知らず腰が引けていた。

「初めて見た時から感じていました。あなたの内に存在する痛みと悲しみを。あなたは悲しみを抱えてここに遣って来た。違いますか?」

「え……?よく、分からない、ですけど」

「ああ、分からないのであればその方が良いでしょう。しかしあなたの抱える痛みは死に至る病に等しい。あなたの痛み、悲しみがあなたを殺してしまわねば良いのですが」

忠告のような、嘆息のような岩息の言葉に首を傾げるナマエであったが、彼はそれ以上何も言わなかった。ただ本当にスチェンカ小屋を一周すると丁寧な一礼と共に彼はナマエの目の前から消えてしまい、後に残されたナマエは上機嫌の鯉登に発見されるまで不可解な思いを隠し切れずにそこに立っていたのだった。

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