目の前で頭を下げる置き引き犯らしい男とその保護者という男をぼんやりと見ながら、ナマエは自分の身体に明らかな違和感がある事を感じていた。重怠く、まるで澱みに足を取られたかのような倦怠感が徐々に巻き付くように彼女の身体を支配していた。しかも走ったせいか身体の奥底からやってくる火照りは冷たい外気に晒され、自然と身体を震わせた。そう言えば、少し節々が痛い気がする。
そしてナマエはそれらを総合し、己の身体に起きた事象に対してある一つの結論を導き出した。
(急に走ったせいかな。最近はなんだかんだで犬ソリとかで移動することも多かったし……、運動不足かなあ、)
少しばかりぼんやりとする思考を持て余しながら、ナマエはくらくらとぶれ始めた視界に目を回す。
(うう……、気分悪い……)
沢山走って汗をかいたせいで冷えた身体は止めようもないくらいに震え、歯の根が合わずかちかちと鳴る音を懸命に隠す。体力が無いせいか疲れ切った身体は立っていられないくらいに怠くて、今すぐにでも座り込んでしまいたいと叶うはずもない欲求が脳裏を掠めた。
「―――――――!――――――――――――!?」
目の前で杉元が何か大声を上げているのが徐々に狭くなっていくナマエの視界に入る。不思議なことに彼の声はナマエには全く意味を成した音として聞こえてくることは無かった。それはただの音の羅列でしか無くて。
(あ、れ……?)
今までこちらに背中を向けていた鯉登が急に振り返ってナマエの表情を窺って怪訝な顔をする。しかし鯉登がナマエに近付いて、彼女の異変を悟るよりも先に、ナマエの視界は黒く塗り潰されていき、彼女はそれに抵抗する間もなく意識を手放したのだった。
***
嫌われるのが怖かった。これ以上存在を否定されたくなくて、殊更に他人の顔色を窺っていた。生まれながらに与えられたカムイの目と耳は、他人に阿るのに役に立った。
神様から与えられた能力をそんな事に使うのは良くない事だとは分かっていたけれど、それよりも嫌われたくないという気持ちの方が勝っていた。
両親に愛される事はもう諦めたけれど、それでも大切な親友や、私の事を知らずに関わってくれる人たちが離れて行かないように、私は彼らが望むように振る舞おうと思っていた。
それを、彼は朗らかに否定した。
「思い切り笑って、思い切り泣く。子供っていうのはそういうモンだろ?」
私の事を知った上で、優しい眼差しで頭を撫でるその手の温もりを今も鮮明に思い出せる。父親とは、このようなものだろうか。そう、思った。
***
「…………ん、」
薄らと開いた瞳が映したのは見たことの無い天井で、何やら夢を見ていたような気もしたがナマエはそのことをすぐに忘れてしまう。そして状況を把握しようと訳も分からず身体を起こそうとして失敗した。視界が揺れるように歪んだからだ。耳許で心臓が音を立てて鳴り、少し動いただけなのにすぐに息が上がった。完全に体調を崩していた。
「……ナマエ?」
不意に声がして、そちらの方に視線をやれば気遣わしげな顔の鯉登が所在無さげに立っていた。
「……鯉登、ニシパ。あの、私……」
「大丈夫か……?急に倒れたから驚いたぞ……」
ナマエのことを気遣ってか声量を抑えて言葉を発する鯉登はゆっくりとした足取りでナマエの許へ近付くと、その傍らに腰を下ろす。
「熱は……、まだ高いな……」
大きな掌が簡易ベッドに横になったままのナマエの額を覆って熱を測る。その手の冷たさに(もしくは彼女の額が熱すぎるのか)ナマエは気持ち良さそうに目を細めた。
「鯉登ニシパの手、きもちいい……」
「……そ、そうか?」
蕩けた目で鯉登を見つめるナマエにどぎまぎしつつも鯉登はナマエの額に置いた手を離そうとはしない。互いに確信めいた言葉を口にしようにも出来ず、ナマエと鯉登は見つめ合ったまま無音の時を過ごす。
「その、」「あの、」
ナマエが思い切って口を開けばそれは鯉登も同じだったようで二人は同じタイミングで顔を見合わせて、そして俯く。鯉登は少し考えるように間をおいてから、ナマエが何も言わないことを知るとゆっくりと言葉を発する。
「その、慣れない事ばかりで疲れたのだろう。私たちは当分この曲馬団に身を置く事になるから、暫くはゆっくり休め」
「……曲馬団、?」
「杉元がアシリパを見つけるのに曲馬団で目立つのだと……」
僅かに不満げに眉を寄せる鯉登にナマエは首を傾げるも何も言及すること無くゆっくりと息を吐いた。
「皆が頑張ってるのに、ごめんなさい……、」
「いや、お前はよくやっている。慣れない身で、しかも男所帯の旅だ。本当なら、鶴見中尉の許で待っていることも出来ただろうに」
「何も出来ずにただ待ってるのは、嫌だったから……。二度と、大切なものを喪いたくない」
ふるふると首を横に振ったナマエはそっと微笑むと、鯉登の肩を押して距離を取る。拒絶とは違う、それでも明確な線引きに目を見張る鯉登にナマエは薄らと顔に笑みめいた表情をのせた。
「せめてこれ以上皆の迷惑にならないようにしないと。鯉登ニシパも私の事は気にしないで」
「……大丈夫なのだ。私が望んでナマエの傍にいるのだから。それに私はどうやら軽業の才能があるらしくてな、練習など必要ない」
それこそ杉元のハラキリショーなんかより余計に……、と鯉登が続けるのをナマエはぼんやりと相槌を打ちながら聞く。不思議なことに鯉登の声は空間に発せられるや否や途端に心地よい音となってナマエの聴神経を揺らすのだ。やはり疲れていたのは確かなようで、(「ハラキリショー」とかいう物騒な単語が聞こえたような気もしたが)それに反応するよりも早くナマエは心地良い微睡みに引かれていって、彼女は静かに目を閉じた。鯉登もどうやらナマエの様子に気付いたようだ。彼女が寝るに任せて静かにその髪を撫でる。
「お前があの男の為に、悩む必要も、苦しむ必要もないのだ……。いっそ全て忘れたままだって、」
最後に聞こえた押し殺したような「音」はしかし、結局ナマエには音のままだった。そして次に目を覚ました時、鯉登が律義にナマエの枕元にいてくれた事に知らず知らず彼女は安堵していた。その感情の揺れ動きにも気付かないまま。
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