置いてきたもの

誰かに呼ばれたような気がして、反応した尾形であったが当然そこには誰もおらず、駆ける馴鹿橇が巻き起こす凍えそうな風がただ僅かに髪を揺らすばかりであった。

らしくない自身に僅かに自嘲を籠めて胸元に手を当てた尾形は、防寒着とは少し違う感触に更に自嘲の笑みを深めた。そこに入っているであろう「写真」のことを尾形は一度だって忘れた事は無かった。別れの直前にあのアイヌの少女が最後に見せた表情だって、落とした言葉だって同じだ。忘れようとすればする程に脳裏に色濃く浮かび上がるのだ。まるで初めて人を殺した時の記憶のように。

(馬鹿馬鹿しい……)

今更それをどうしようというのか、どうしたいのか尾形は自身の事ながら判別がつかなかった。彼女に対して抱いていた感情がその判断を鈍らせていたことは分かっていたけれど、それでもどうしても認めたくなかった。認めれば最後、考えざるを得なかった。あの少女の末路を。

そっと懐の内から件の「写真」を覗かせる。それを撮ったのがもう幾年も前のことのように尾形には感じられてならなかった。そしてそれは彼の半生の中でも最も気が休まったひと時と言っても過言ではなくて。もっとも彼はそれを面と向かって認める事は決してないだろうけれど。

緊張したような面持ちでそれでも僅かに笑みを見せる彼女とは対照的に自身は何を考えているのか分からない、「無」の表情をしていた。自分自身の事ながら呆れてしまう、と尾形は先ほどとはまた違った意味で笑みを零す。そう、一見二人はちぐはぐに見えた。それでも尾形ははっきりと覚えていた。

自身の手に伝わる彼女の熱を、ほんの少し触れた彼女の手の柔らかさ、脆さを。

(……クソが)

だがそれを棄てる選択をしたのは紛れもなく尾形自身だった。たとえどんな安寧だとしても、それを尾形は棄てた。それを今更、

(っ、)

気付いた時には、尾形はそれを風の中に踊らせていた。視界を前から後ろに横切った飛来物に咄嗟に振り返ったアシパが尾形に声を掛ける。

「おい、尾形!今何か飛ばさなかったか!」

「…………、」

「尾形!」

どんどんと離れていく橇に焦るように尾形に問いかけるアシパであったが、びくりと肩を揺らす。どれだけの言葉をもってしても言い表せない程の鬼気迫る表情がそこにはあった。それは何もかもを無理矢理に断ち切ってしまうように鋭くて、それでいて張り詰め過ぎていつ切れてしまってもおかしくないような表情だった。

「……何も、ねえよ」

地の底を這うような声は声量もそれ程ある訳では無かったのに、妙にアシパの耳に付いて離れなかった。しかし尾形は知る由も無かった。彼が空に躍らせたそれが勢いを失ってひらひらと白い大地に舞い落ちた時、それに近寄る人影があった事を。「彼」は拾い上げたそれを、暫し眺めた後に静かに懐に仕舞った。

***

大成功に終わった樺太公演(一部想定外の事態もあったが)であったが杉元の思惑が完全に叶ったとは言い辛い状況であった。それはともかくとして一宿一飯以上の恩義のある(特にナマエは)ヤマダ一座に別れを告げ(鯉登は最後まで引き抜きにあっていた。もっともブレない男は何を言われてもブレないのだが)、一行は次なる目的地に向けて出発した。

「……本当に大丈夫なのか?」

「……大丈夫ですよ。熱ももう、下がってるし、」

気遣わしげな鯉登の後ろで月島が頷く。谷垣も時折振り返ってはナマエの様子を確認するし、チカパシは彼女の手を握って離そうとしない。杉元も焦ってはいるがナマエの体調のことも気懸かりであるらしく、それが却って彼の焦燥を増長させているようであった。

ナマエは何でもないように微笑んで頷くが、その顔色はお世辞にも良いとは言えない。口数も少なく、俯いてひたすらに歩を進める彼女の横顔は硬く強張っていた。

「~~~~っ!」

「へ、きゃぁっ!」

それは唐突だった。ナマエの手を握るチカパシの手が緩んだ瞬間、鯉登がナマエを抱え上げたのだ。突然のことに目を白黒させるばかりのナマエに鯉登は苛立った様子を露にする。

「無理をするな!また倒れられた方が面倒だ!」

「ご、ごめんなさい……」

「私を、頼れ……!」

「は、はい……!」

余りの剣幕にこくこくと頷くばかりのナマエに鯉登は納得したのかしないのか杉元を睨むように見て「ナマエは私が連れて行く」と怒鳴るように宣言した。

「え、お、おう……」

「何か文句があるのか!」

「な、無いよ。お前らも無いだろ」

杉元でさえ鯉登の勢いに押され気味である。杉元に促されるような形でばらばらと同意の意を示した一同に鯉登はナマエを抱え直すと未だ面白くなさそうな表情ではあったがそれでもまだ優し気な声音で「寝ていろ」と囁いた。皆が歩いているのに自分だけがと、最初は意地でも眠るまいとしていたナマエも旅の疲れと発熱後の虚脱、そして鯉登の温もりが眠気を引き出したのかうとうとと微睡み、気付いた頃には犬橇に乗せられて次の目的地、アレクサンドロフスカヤ監獄への道を行くのだった。

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