灯台守の老夫婦の家に一晩厄介になる事となった一行は仮の安息の地を得て久方ぶりの深い眠りを貪っていた。しかし仲間たちの鼾や寝言を聞きながら、月島はまんじりともせず寝床の中で身を丸めていた。脳裏を過ぎるのはあの夫婦の言葉。「帰らない、生きているのかも分からない娘」。老夫婦に見せてもらった写真の中の娘は、月島の生を今も支えている「あの子」を、姿形なんて似てもいないのに、何故だか思い起こさせた。
だからだろうか。少しでも眠って体力を回復させなければならないというのに、こんなにも眠れないのは。妙に昂ってしまった神経を鎮めるために、月島は仲間たちを起こさないように静かに起き上がった。窓の外は未だ風雪吹き止まず、吹き荒ぶ風が家を軋ませるように渦巻いていた。
「……月島ニシパ?」
不意に小さな声が転がって、月島は振り返った。そこには彼の予想通り眠い目を擦りながら身を起こしたナマエがいた。耳の良いナマエには月島が身体を起こす僅かな音も聞こえるのだろう。ナマエは不思議そうな顔をして、欠伸を噛み殺すように瞳を蕩けさせた。幼い顔が更に幼くなって、月島は僅かに目を細める。
「起こしたか」
「ううん……。風の音で、起きただけ……」
噛み殺した欠伸の余韻か、左の眦から零れ落ちた一粒の雫を手の甲で拭いながら、ナマエは首を傾げて月島の事を見つめ上げた。眠気に押される幼い瞳の中に浮かぶ確かな強い光に見透かされているような気になって、月島は挑むように彼女の瞳を見返した。
「…………眠れないの?」
とろりとした琥珀の瞳が気遣わしげに細まって、彼女は膝立ちに月島の方ににじり寄ろうとする。しかしそれよりも先に月島は口許に人差し指を立て、彼女に示して見せる。月島の様子にはっとしたように辺りを見回したナマエは寝息を立てる仲間たちに慌てて頷いた。
「何でも無い。寝ていろ」
空気を微かに揺らす程の声量で呟いた月島はナマエの答えも待たずに彼女に背を向けて寝所から抜け出した。別に何をしたくて寝所を抜け出した訳では無いのだが、ふと気配を感じて振り返ってみると、そこには月島の表情を窺うように小首を傾げるナマエがいた。
「……寝ていろと言った筈だが」
「月島ニシパも寝ないと」
「俺の事は放っておいてくれ」
「やっぱり、眠れないんだ」
僅かな外の光を掬い取って煌めくナマエの瞳を見つめ、月島は小さく息を吐く。実際眠れないのは本当の事だった訳で。ナマエは心配そうに眉を寄せて、「私も、目が覚めちゃった」と小さく口にした。
廊下に面した窓辺に寄り掛かって、ナマエは外の様子を窺っていた。昨夜の荒天は少しずつ収まってきてはいるようで、窓ガラスに打ち付ける風の音も、昨晩より大分マシになっていた。
「風の音が小さくなった。明日は天気が良くなると良いね」
小さな声に明日への期待を乗せるナマエに月島は鼻を鳴らして返事をする。ナマエは特に気にした様子も無く、呆けたように窓の外を見つめていた。沈黙が、暫し流れる。
「杉元に聞いたんだけど、」
ふと、ナマエが口を開いた。月島を振り返ってその目を見て、ナマエは言葉を継いだ。
「私は生まれた集落を捨てようとしてたんだって。誰にも、何も言わずに」
「そうか」
「昔の私が言うには、私がいなくなって悲しむ人は誰もいないからそうしたんだって。でも、今日スヴェトラーナさんの事を聞いて、本当にそうだったのかなって思った」
「というと?」
ナマエは考えながら言葉を紡いでいるようで、黙ったり言い直したりしながら続ける。
「もしかしたら、私はとても、酷い事をしたんじゃないかって思ったの。もしかしたら、私を好きでいてくれた人がいたかも知れないのに。あのおじさんやおばさんのようにいなくなったら悲しんでくれる人がいたかも知れないのに、私は何のけじめもつけなかったみたい」
その言葉に感情を何一つ乗せずに思考を言語化するナマエに月島は少しだけ「あの子」の事を考えた。そして老婆心ながら、忠告してやりたいとも思った。
「知らない、という事が一番辛い事だと俺は思う。少なくとも、俺はそうだった」
「…………」
ナマエは一つ頷いた。それ以上何も追求する事もなく。暫し沈黙が二人の間を流れる。終わりは不意に訪れた。月島の息を吸う音に、ナマエの視線が動いた。
「…………戻ろう。明日も早い」
「うん、月島ニシパはちゃんと眠れそう?」
「ああ。お前もちゃんと寝るんだぞ」
「月島ニシパは自分の心配をした方が良いと思う。なんかいつも、皆に振り回されてる気がするから」
唇を尖らせるナマエの表情に、余計なお世話だと月島は笑いを噛み殺した。外の吹雪は少しずつ止み始めているようで、空は少しずつ月明かりに白み始めていた。とある吹雪の夜の事である。
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