残された言葉

ぐったりと、ナマエは寝台に寄り掛かって深く息を吸うだけだった。疲弊した精神は肉体を蝕み、彼女は息をする事にすら体力を使う。

杉元が捜して来た亜港の医者が営む病院まで連れられてきたナマエはすぐに過労と診断され、鎮静剤の処方と共に寝台にその身を沈める事となった。

「何も心配しなくて良い。ゆっくり休むのだ」

「……いやだ、起きてる……」

愚図るように首を振るナマエを宥め透かす鯉登は静かに彼女の頭を撫でる。それすらも拒絶するように身を退け反らせようとするナマエに、鯉登は苦い顔をする。ナマエは鯉登の表情にも気付かず、聞かん坊の子供のように首を振ってばかりだった。

「寝ていろ、お前は疲れているんだ」

「やだ……、また、誰かがいなくなったら、……」

「…………っ」

譫言のようなナマエの言葉は意図せずとも言外に鯉登らを責めているような形になって、彼は身体の横で拳を握る。彼自身そこに後悔など微塵も無かった。それでも己の行為が目の前の少女を傷付けたのだと思うと僅かにやるせない思いはあった。

「ナマエ……、頼む。寝てくれ……。このままではお前が病んでしまう」

「やだ……、尾形の傍にいる……」

体力的にはとっくに限界を迎えているのだろう。ナマエは眠気に蕩けた瞳を辛うじて揺らめかせて、彼女の想い人の姿を探す。その言葉に鯉登はびくりと肩を揺らす。

「ナマエは、本当に、奴の事が……」

「ん……、お、がた……」

小さく溢れた鯉登の言葉はナマエには届かなかったのか、彼女は返事をしなかった。或いは出来なかったのか。いずれにせよナマエはまるで幼な子が寝付けないかのようにむずかった。鯉登はその傍に膝を突いてただ、ナマエの髪を梳くように撫でる。その時だった。

「アシパさん!逃げた!!尾形が逃げたぞ!」

様子を窺いに治療室に向かった杉元が血相を変えて出て来るのを、鯉登は何故かすぐには反応出来なかった。しかしすぐに思い直して部下に指示を与えようと突いていた膝を立てようとした。その一瞬、彼の脳裏には全く正反対の事が浮かんでいた。一つは己の心のままに尾形を捕らえ、或いはその息の根を止めてしまう事。そしてもう一つは。

「……尾形、がどうしたの?」

鯉登は疲弊して悲しみに微睡む瞳を見た。ナマエの顔は明らかに怯えていて、その怯えは異様な事が起きているのだという事を、彼女が察知しているのだと彼に悟らせた。そして鯉登は、彼女がこれ以上何かを喪う事を確かに躊躇った。

「何でも無い。ちょっと様子を見て来るのだ。ナマエはここにいてくれ」

「ま……っ」

ナマエが何事か言い掛けたのを聞かずして、鯉登は警戒しながら、診察室を覗く。そこには亜港の医者が倒れていて、一先ず彼の安否を確認しようと、鯉登はその傍に膝を落とした。そして、背後の気配に振り返り、咄嗟に拳銃を構える。

そこには彼の予想通り、尾形がいた。隻眼にそれでも爛々と謎めいた色を湛え、看護婦を人質に神経を逆撫でるような薄ら笑いを浮かべていた。尾形は何事かを医者に対して叫んだ。それを鯉登が解す事は出来なかったけれど、鯉登にとって碌でも無い事であるのは確かだった。

不思議な事に拳銃を構えた時、鯉登は不思議な程に冷静だった。自分でも、冷静であると自覚できるくらいに。ナマエのために見せた躊躇いも、己の私情も、その一切が、鯉登の中で消え去り全てが凪であるかのように錯覚する。そして、彼は何の疑問も無く引き金を引こうとした。ただ、「そうすべきである」そう思ったから。結局それは阻まれたのだけれど。

阻んだのは尾形でも鯉登でも勿論看護婦でもないこの場にいない、もう一人だった。

「……、鯉登、ニパ……?」

か細い声が、背後で聞こえる。ナマエだった。当然全員の視線がそちらに向く。否、唯一視線を彼女に向けていない者がいた。医者だ。彼はナマエが声を発するよりも先に、次の動作に移っていた。鯉登の頭上で振り被って。

「こい、っ……」

ナマエが忠告するよりも先に、殴り倒された鯉登がナマエの足元数歩先に転がる。咄嗟に彼に駆け寄ろうとして、ナマエは部屋の中にもう何人かいる事に気付いて足を止めた。そして、見た。その琥珀の瞳と隻眼の昏い目が確かにかち合った。

「……ぁ、お、がた……」

唇を戦慄かせる彼女の声は震えていた。鯉登の落とした拳銃を取られ、半ば人質が増えたような状態で、鯉登を庇うように彼に身を寄せるナマエに尾形は場違いに笑みを深めた。

「ナマエ、逃げろ!!」

「……!っ、ぁ……!」

鯉登が僅かな隙を見て尾形からナマエを引き離そうとするよりも、尾形の方が早かった。彼は鯉登を渾身の力で(それでも十分な力ではないだろうが)蹴り飛ばすと、傍にいて固まっていたナマエの腕を掴んで己の方に引き寄せる。新たな人質か、と鯉登が顔を歪めて衝撃に揺れる視界の中で起き上がろうとした時だった。

「ふ、んぅ……っ」

「っな……!」

それはナマエですら予想をしていなかったのだろう。彼は、尾形はナマエを引き寄せると一遍の迷いも無く彼女に口付けた。鯉登に見せ付けるかのように、或いは彼女自身に分からせるかのように。

「尾形の足跡が無い!まだ中にいるんじゃないか!?」

どこか他人事のように杉元たちの声が外から聞こえてくる。その声を聞いた尾形は、唐突に始まった口付けをまた、唐突に終えた。驚いて息を吸う事もままならなかったナマエは肩で息をしていてぼんやりと目を丸くして尾形の顔を見詰めているだけであった。その間の抜けた顔に、彼は僅かに頬を緩めるとその耳許にそっと口を寄せた。

何事か囁かれたナマエが戸惑いに揺れている隙に尾形は彼女の肩を突き飛ばす。それは明らかに鯉登に対しての足止めで、しかも彼にとっては十分すぎた。

「っ、ナマエ!……っおい!待て!尾形ぁっ!!」

鯉登に抱えられ、その咆哮を耳にしながらもナマエにはなぜかそれが我が事のように感じられなかった。彼女の耳にははっきりとこびり付くようにその言葉が残っていた。

――迎えに行く

ただ一言、与えられたその言葉だけが。

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