隣で物も言わず(言えず)佇むヴァシリにナマエは何を言って良いのか分からずにただ口を噤んだまま俯いた。たとえヴァシリが話す事が可能だったとしても彼と彼女の間には言葉の壁があるのだからお互いに意思疎通する事は難しい。しかしだからこそ、彼女は思った事が言えるような気がして、思い切って息を吸い込んだ。
「あ、あのね、頭巾ちゃん……」
ナマエの言葉にヴァシリがちら、と視線をこちらに遣るのが分かって彼女はぐっと両手を握り締めた。何から話せば良いのか、何を話して良いのか、判断しながら。先程懐に入れた尾形との写真の存在を酷く重く感じながら、ナマエは視線を上げた。
「私は……」
「そ、そこにいる君もアイヌではないかね!?」
「え……?あ、は、はい……」
ナマエの言葉を遮ったのは二人組の男たちだった。見慣れない機材を抱えている。警戒するようにヴァシリがナマエの前に進み出て、一時彼らの間に刺々しい雰囲気が流れるが、それはナマエが宥めるようにヴァシリの肩に手を添えた事で収まった。
「丁度良い!私たちはアイヌの文化をこのシネマトグラフに撮っていたのだよ。君たちも是非撮影に参加してくれないか?」
「参加……?」
首を傾げるナマエを男たちの後からやって来たアシリパが補足する。
「ナマエ、私たちの文化をこのシネマトグラフで残そうと思うんだ。協力してくれないか?」
「……え」
アシリパの言葉にナマエは何故か即座に頷く事が出来ずにいた。樺太に渡り、あれ程失われつつある文化に触れたのにもかかわらず、ナマエには「それ」を残したいのかがよく分からなかった。それどころか寧ろ。
(……私はもしかしたら)
それは今まで己の来し方を疑いもしなかった少女が初めて考え至った疑義。
己は遺したいと思っているのだろうか、そう考えた時、それは違うような気がした。遺すべきとか、消滅すべきとか、「そんな事はどうでも良い」。ナマエの脳裏を過ったのはそんなある種捨て鉢な考えだった。元々捨てようと思った来し方にナマエはさして意味を見出せなかった。そしていつか来る旅の終わりのその先にある新たな始まりを、アイヌとして生きるのかと問われたら、何か違うような気がした。しかしそれはただの予感のような物でそんな事は到底口にする事が出来ず、彼女は唇を引き結んだままアシリパに対して何と返答するか暫し迷った。
「……そう、だね。私は背景を書きたいな。頭巾ちゃんも絵が得意みたいだから、一緒に出来るかな?」
ナマエの一瞬長い沈黙に怪訝な表情をしていたアシリパだったが、彼女の返答に顔を明るくさせると早速脚本を考え始める。ああでもない、こうでもないと頭を捻るアシリパの後ろで、ナマエが一人浮かない顔をしていたのは、ヴァシリしか知らない事であった。
***
撮影は思ったよりかは順調に進んだようなそうでないような、兎に角予定の脚本を取り終えて、鯉登の援助の下で借りた芝居小屋で一行は取り終えたフィルムの上映会を行っていた。
「音が入らなくても、動きがあるだけで臨場感があるね」
撮影にあまり乗り気でなかったナマエもやはり活動写真を見るのは初めての経験で、心が躍るのを押さえられない。暫し皆で上映会を楽しんだ後、ふと写真家の男がアシリパの顔をじっと見つめた。
「君、この人たちに見覚えはあるかね?」
「え?」
突然の問いに首を傾げるアシリパに、写真家の男はもう一人の男に指示を送る。その男が流し始めた活動写真に写っていたのは。
「あれ?これ私たちのコタンだ!」
「これは私たちが十年以上前に小樽で撮影したものだよ。この人が君にそっくりだと思ってね」
そこに写るのはとある家族のようだった。顔に傷のある男性の姿。そして。
「じゃあこの隣にいる人が……」
「…………アシリパのお母さん、」
ぽつりと、ナマエが呟いた声が、吸い込まれるように消える。赤児のアシリパを抱き上げて慈しむその表情は美しく、ナマエは思わず視線を逸らしてしまった。求めてやまなかった母の愛が親友には確かにあった事を知ってしまったから。
「あっ!」
不意に弾けるような音がして、次の瞬間には映写幕に移る家族の群像は焼き切れていく。咄嗟に手を伸ばしたナマエだったが、誰かに手を引かれ芝居小屋を後にせざるを得なかった。最後に振り返った彼女が見た物は、焼き切れるアシリパの両親、そして、その慈愛に満ちた微笑みだった。
「…………」
小屋を出て初めて、自身の手を引いているのがヴァシリだと気付いて、ナマエは何故か一瞬安堵してしまった。狙撃手という「彼」との共通点がそれを成せるのだと彼女は気付かなかったけれど。
芝居小屋から少しばかり離れて止まったヴァシリは、黙ったままナマエの目の前に膝を突くと、そっと彼女の頬に付着していたフィルムの燃え煤を拭う。深い青色の瞳がナマエを抉るように見つめている。その心中は瞳からは読み取れなかった。それでもその瞳は彼女の口を緩ませるには十分すぎる程だった。
「頭巾ちゃん……」
唇を震わせて、ナマエは口を開いた。何を思って何を言葉にしようとしたのか、全く考えもなかった。ただ、心に突き動かされるままに口を開いた。
「尾形に、あいたい…………。あいたい、よう」
ナマエの琥珀の瞳が水面のように揺れるのを見ながらヴァシリは彼女の背後に一瞬目を遣った。そこにいるであろう薩摩隼人の気配を探るために。
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