放たれた矢が毒矢でない事は、ナマエにもすぐ分かった。そしてその瞬間、揺れていたナマエの心は定まったように彼女には感じられた。鶴見の一団に兄の姿は無いようだった事が僅かに心残りではあったが、その事が彼女の意思をより明確にさせた。降り注ぐ矢の雨の中、ナマエは決めた。最後まで見届けて、そして、己の「役目」を見付けようと。
「行こう、アシリパ。さいごまで、ついていくから」
「……ああ!」
静かでそれでいて固い決意を帯びたナマエの言葉に寸拍置いて大きく頷いたアシリパと杉元と共にナマエは身を翻して走り出す。後ろから追って来る、師団の人間たちを躱して彼らは逃げる。それでも多勢に無勢なのは明らかで。月島からの狙撃を受けた杉元が足止めを喰っている間に、彼の身体には幾つもの銃弾が撃ち込まれる。
「杉元……っ!」
咄嗟に銃口と杉元との間に割って入ったナマエとアシリパに、一時銃声は止むが遂に三人は追い付かれた。追っ手を率いていたのは鯉登であった。鯉登はナマエの顔を見ると僅かに眉を動かしたが、手にしていた拳銃をしまう事は無かった。
「アシリパ、ナマエ。お前たちは何をしている」
呆れたような声にナマエが言葉を返そうと口を開いた時、杉元の身体に添えていた彼女の手に怖ろしいまでの殺気に近い戦慄きが伝わる。はっとそちらを見るよりも早く、ナマエは見た。銃剣の先が鯉登の左肩口を貫通したのを。
それを合図に鬼神の如き動きで追っ手を伸してしまった杉元はアシリパとナマエの手を取りその場を去ろうとする。しかしナマエの足は動かなかった。
「ナマエ!?」
「行って!必ず追いかけるから!」
「……っ!分かった!必ずだぞ!」
走り去っていく杉元とアシリパの背を一瞬見送って、ナマエは鯉登に駆け寄った。小さくて細い手が、彼の傷口に触れる。
「…………ナマエ」
「喋らないで。深い傷だし、血が沢山出たら死んでしまう」
呆然とナマエの顔を見つめるだけの鯉登に彼女はそれ以上の言葉を返さない。月島も今はナマエを捕らえるより、鯉登を優先すべきと判断したのか何も言わず鯉登の傷の止血を手伝っている。その様子を、鶴見が一瞥して通り過ぎた事にナマエは気付かなかった。
「よせ……、逃げろ、ナマエ……」
譫言のようにそう繰り返す鯉登であったが、すぐにその黒灰色の瞳は目蓋の下に隠れてしまう。ありったけの布と薬草とで急場の止血を終えたナマエは首を振る。観念した、と言っても良かった。鯉登を見捨てられなくて(杉元にはアシリパが付いている。でも鯉登には?昨日の晩彼が何か思い悩んでいた事に月島や鶴見が関わっている事に、彼女は薄々気付いていた)、この場に残ったのは良いが、これでは捕まえてくださいと言っているようなものである。暗号解読に自身が何の役にも立たない事は百も承知だが、捕らえられて事態が好転するとも思えなかった。
「…………行け」
不意に押し殺した声が聞こえて、ナマエは顔を上げる。それは月島の声であった。彼はその手を鯉登の血で濡らしながら、未だその傷口を押さえ止血していた。
「あの」
「行け。次は無い」
最短の言葉は真剣そのもので、本当に「次」は無い事を彼女に教えた。頷いて身を翻したナマエの背を見つめる月島の瞳に浮かぶ感情を知る者はいなかった。
杉元とアシリパを追って疾走するナマエであったが、その姿はどこにも見えない。血の跡を辿ろうにも、彼らはどこかで止血をしてしまったのであろう、途中で途切れてしまっていた。
(どうしよう……、このままじゃ……)
途方に暮れるナマエは頼りの耳と目を使い杉元とアシリパの痕跡を探す。しかしいつ師団の人間が現れるかも知らないという焦りからか、そのどちらもが中途半端な働きしかしなかった。取り敢えず港に行けば合流できるかと踏んだ彼女が一歩を踏み出したその時だった。
「いたぞ!」
背後から聞こえる怒声。振り返らなくても師団の人間である事は明らかであった。心臓が高く高く跳ね上がり、背筋が粟立つのを感じながら彼女は走り出す。背後から少しづつ距離を縮めて来る足音と上がる息にいよいよ彼女が絶望しそうになった時だった。
「わあっ!?」
不意に真横に聞こえた馬の嘶きと共に浮遊する身体。そして身体に伝わる衝撃。捕らえられたのかと思ったが違ったようだ。
「頭巾、ちゃん……?」
横乗りの姿勢で、ヴァシリに支えられて彼女は遠くに消えて行く師団の人間をぼんやりと見送った。情報の処理が追い付いていなかった。追っ手の姿が完全に見えなくなってから、漸く彼女は何が起こったのか把握した。ヴァシリが師団に追われる自分を見付けて、彼の乗る馬に引き上げてくれた事を。
「あ、ありがとう……」
伝わったのか伝わってないのか分からないが(恐らく伝わったと思う。彼は小さく頷いたのだから)礼を言う彼女の身体を左手で支え直しながらヴァシリは馬に鞭入れ駆ける。目指すは港であり杉元とアシリパ、そして白石との合流である。ナマエの旅はまた、新たな局面を迎え、始まったのであった。
コメント