追っ手は撒いたと思っていた。漸く土方の許に都丹を連れて辿り着いた所で、背後から二発、銃声が聞こえた。
「っ……!?」
「追いついたぜ、有古……!囚人を連れてお散歩か?」
「っ、エコリアチ……!」
酷薄な笑みに有古は咄嗟に小銃を構える。しかし彼がその引き金を引くより先に、エコリアチは自身が持つ拳銃を雪原に落とし、両手を挙げた。ただならぬその雰囲気に訝しむ様子の有古に、都丹もまた、引き金にかけていた指を下ろす。
「っ何をしに来た!」
「取引だよ。師団に居るよりはこっちに居た方が『あの子』と一緒にいられそうな気がしてさ」
悪びれる様子もなく、肩を竦めるエコリアチの本心は有古には判然としない。しかしそれを熟考するよりも先に、先程の二発の銃声を聞いた土方たちが姿を見せる方が先であった。
「……どちら様かな?」
見様によっては慇懃にエコリアチに誰何する土方の目は抜け目なく光っている。エコリアチもまた同じくだ。突けば破裂してしまいそうな程張り詰めた緊張感に有古は知らず背筋が粟立つのを感じた。
「エコリアチ。あんたらの所に妹が世話になったって聞いてさ」
せっせと御礼参りに来たって訳。
余裕そうな顔で肩を竦めるエコリアチに反応したのは土方よりも寧ろ永倉や夏太郎であった。
「妹って……」
「ナマエ嬢の事かね?」
土方のいつもと変わりない声音のその声の背後に、少しでも回答を謝れば死が待っている事実が見え隠れする。それなのにエコリアチは端正な顔に、この場には相応しくないくらい人懐っこそうな人好きする笑みを見せるのだ。
「やっぱり、知ってたんだな。そうだ。ナマエは俺の妹。たいせつな、俺の妹」
中々ナマエに会えないから少し遠出したってワケだ。
あっけらかんとそう言い放ったエコリアチに、更に表情を硬くするのは永倉だ。彼は今にも抜刀しそうな勢いで刀の柄に手を掛けている。
「それで態々刀の錆に成りに来たのか?第七師団の人間を、我々がはい、そうですかと受け入れるとでも思ったか?」
「まあ、無理だろうな。だが、だからと言って俺も今更手ぶらでは帰れない。『取ってこい』は、裏切り者の潜伏先の情報で良いか?」
口端を歪め、空々しく加虐性を抑えもしないその笑みに、いよいよ永倉と夏太郎は初撃の構えにつく。正に一触即発、といったその空気を打ち壊したのは土方であった。
「君を受け入れる見返りは?」
「…………さあ。それはあんた次第だ。俺は命じられた事は必ず遂行する。逆に言えば、命じられた事以外は一切しない。俺を生かすも殺すもあんた次第、上手く使ってくれれば良い駒になる」
「っ、そんな保証どこにも……っ」
夏太郎の呆れたような言葉にエコリアチは冷めた眼を彼に向けた。
「現に俺は、鶴見中尉から『有古を追え』と言われて追ってきた。だが『殺せ』とは言われてない。だから、殺さない。そしてあんたたちと『取引するな』とも言われなかった」
その表情はエコリアチに相対する者たちの反論を封殺するだけのある種の気迫を持っていた。そしてそれはどうやら土方にとっては十分だったようだ。
「それだけ出来れば及第点だ」
「っ土方さん……!?」
にやり、と口端を持ち上げた土方にエコリアチも気を良くしたのか狡猾な笑みを消して人好きするそれに変える。
「存分に使ってくれ。ナマエからあんたらの事は少しだけ聞いてるからな。俺はナマエの味方につくよ」
未だ状況を量りかねている土方以外の面々にも軽く会釈をするように目配せをしたエコリアチを彼らは疑わしそうな眼で見るのだが、当の本人はその視線をものともしていないようだ。足下の不安定な雪原をまるで舗装された道のようにひょいひょいと歩き、有古の肩を叩く。
「という訳でよろしく」
柔らかそうな濡れ羽色の髪が陽光を受けて、光沢を見せる。黒鉄の瞳の中に浮かぶ瞳孔が縦長に切れているのを有古は見た。その容貌は持ち主の性格さえ知らなければ人々によく受け入れられるだろう事を有古は知っていた。
「良いのですか?」
不服そうな永倉がエコリアチの背を眼で追っていく。問われた土方は僅かに目を細めた後、薄く笑った。
「どうもあの手合いを見ると、源さんを思い出す」
「…………命令に忠実というだけでしょうに。源さんはもっと慎重で重厚だったかと」
有古には理解の能わない二人の会話は、思い出を懐かしむには哀しくて、喪った誰かを偲ぶには柔らか過ぎた。
おっかなびっくりの夏太郎に絡まれているエコリアチの屈託の無い笑みを、懐かしそうに見つめる二人の顔が穏やか過ぎて、有古は声を掛けられなかった。きっと都丹もその雰囲気を感じ取ったのだろう。構えていた拳銃を静かに下ろすと疲れたように肩を回した。
「さあ、土方ニシパ!何でも命令してくれ。何をして欲しい?」
「な、なんでお前が仕切るんだよ!大体そんな簡単に土方さんに信頼されると思うなよ!」
「なんだ?嫉妬か?」
「はあ!?違うわ!!」
「喧しい!!」
ぎゃあぎゃあと喚くエコリアチと夏太郎を一喝する永倉に、有古は僅かに目を見張った。従軍中はあれ程冷めた目をしていたエコリアチが、とても楽しそうに笑っているのだ。まるで唯の人のように。声を上げて。
「ははっ!」
それは果たして良い変化なのかそれとも、有古たちを欺くための芝居なのか。何も分からないまま、有古はただ、己に課せられた任務を思った。
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