偲び想う

なまえの事を見ていると、時々どうしようもない感情に襲われる事がある。言っても詮無い事なのに、なまえをその腕に抱いた男たちを殺したくなる。頭の先から足の爪先まで、切り刻んでしまいたい。

なまえは知らぬのだ。私がどれ程なまえを想っているのか。

幼いあの日に少女だったなまえと出会った時、私は絶望していた。絶望して全てを終わらせてしまいと思った。兄を喪い、父に見捨てられ、存在の意義を失った私を、なまえが救ってくれたのだ。

なまえの寄る辺無い瞳を見た時、どうしてか「救わねば」と思った。この少女の生を繋ぐために、私は今日まで生かされたのではないかと、ある種の天啓のような物すら感じた。

その勢いのまま私は大切にしていた兄の形見を彼女に託した。渡してしまう事に少しの迷いも無かった。たとえ彼女が忘れてしまったって良いと、その時は思っていた。彼女を生かす事が出来るならば。

大人になるにつれて、彼女の境遇について僅かでも察する事が出来るようになり、その身に降りかかる苦痛が少しでも和らげば良いと願った。そしてもし、再び出逢えたならば感謝を伝えたいと思った。

彼女がいたから、私には生きる意味が出来た。彼女がいたから、私はあの日死を選ばず、父と和解し、自分で自分を誇る事の出来る人間になれたのだと。

雑踏の中に似た背格好、年頃の娘を見る度に、折に触れてまだ名前も知らないなまえの事を想った。その幸多き事を願い、夜毎の安息を祈った。

そして成長したなまえに出会った時、私はその名も知らぬ少女の事を少しだけ思い出した。あの少女がこのなまえのように、丸い瞳を楽しげに細めて笑っていて欲しいと願った。私の目の前で笑う彼女が本当に楽しそうに笑うものだから。

偶然に知り合ったなまえに、何か訳があるのだなと気付いたのはいつかの別れ際だった。不自然に私の付き添いを断るなまえに少しだけ胸がざわざわした。そして何か予感めいた物を感じた。

「まさか彼女が」という疑念と「きっとそうなのだ」という確信が私の覚悟を鈍らせた。それでも答え合わせをしなければならないと思った。なまえがあの少女であったとしてもそうでなかったとしても、私だけがきっと、なまえを解放出来るのだとそう思ったから。

けれどそれは思ったより大きな衝撃だった。前結びの帯でしどけなく私を迎えたなまえを見るのは。まさか相手が私だとは思わなかったのかなまえは目を見開いて唇を震わせていた。それは私にその生業が露見した事に対する恐怖のように思えて、嗚呼、例え何をしたって私はなまえを解放してやらねばならぬと気付いた。たとえ名も知らぬ少女を記憶の彼方に置き去りにしたとしても。

本当は共に死ぬつもりだった。なまえがもう、誰の物にもならなくて良いように。私がもう、なまえになけなしの感情を揺らされぬように。それなのに。

「ぁ、へ……、のじょ、さ、まっ」

それなのに兄はどうして、いつも誤った道を行く私を導くのだろう。それは私となまえと名も知らぬあの少女の、確かな共通点であったのだ。

名も知らなかった、私を生かした少女は名をなまえと言い、私の託した兄の形見を生きる縁として苦界を生きてきたのだと言う。私たちは、互いに互いを生かして大人になったのだ。これを、運命と言わずして何をそう言うのだろう。

真っ赤な目で、「音様が、私を生かしてくれた」と囁くなまえに同じように告げた。「なまえが私を生かしたのだ」と。

私たちは互いに互いの救い主だったのだ。そして今、私は彼女を、なまえを知り、二度目の恋に落ちた事を自覚した。

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