遠く去り行く

なまえが、消えた。失踪したのだ。尾形と二階堂もだ。帰還した二階堂一等卒の話では、「尾形は」造反した事が確定している。そして彼の周辺を捜索していた私たちがなまえと尾形の「接点」を見つける事に時間は掛からなかった。鶴見中尉の命ですぐに捜索隊が組まれ、私も個人的に心当たりを探ったがなまえの消息は杳として知れず、その失踪は何が目的かも分からない、そうだ。

聯隊の中では緘口令が敷かれ表立っては誰も口にしてはいないが、動揺が細波のように広がっているのが分かる。部下たちの口端になまえの名が上がる度に、身体が反応してしまう。「あの」みょうじ少尉が?となまえの事を何も知らない癖に知ったような口を利く輩を片端から手打ちにしてしまいたかった。

父上の話では、なまえの父君はなまえが何も無しに軍を離れた事に烈火の如く怒り、そしてなまえを廃嫡する勢いだという。

心臓が締め付けられたように痛む。この数ヶ月のなまえは確かに雰囲気が変わっていた。静謐で端然としていたなまえは影も形もなく、どこか刹那的で捨て鉢のように見えた。あの妙な違和感を覚えた時に、きちんとなまえに問い糺していれば良かった。口論したまま、微妙な雰囲気だったなまえにそれ以上拒絶されるのが怖くて、私はその違和感を見て見ぬフリをした。たとえ拒絶されたとしても、何処か様子のおかしいなまえにせめて、真正面から向き合っていれば。こんな最悪の事にはならなかったのではないかと、私は自分自身を責めた。

「…………っ」

時間ばかりが過ぎて、焦りが募る。時が過ぎれば過ぎるほど、なまえの立場は悪くなる。師団にも御家にも居場所が無くなってしまう。なまえの帰る場所が、無くなってしまう。そうしたらもう二度と、なまえと共にいられなくなってしまうのではないかと考えてしまって、心臓が早鐘を打って、肺が押し潰されたように息が苦しくなった。

「っ、月島軍曹……!なまえはまだ見つからないのか!?何か、確かな情報は無いのか!」

努めて冷静に声を出したつもりだったのに、自分の声は酷い苛つきを纏っていた。冷静にならなければならないのに。部下に苛立ちをぶつけても仕方ないのだから。

私に定例の報告に来た月島軍曹は居た堪れないように眉を寄せて首を振る。それもそうだろう。顔を合わせる度に私は月島にそう詰問しているのだから。何度聞いても、答えはいつも同じだった。

「尾形と似た軍人を茨戸で見たという目撃情報が入っています。仮にみょうじ少尉が尾形と一緒なら、」

「っ、そんな事はあり得ない!何故なまえが、尾形と共にいる!?」

「……みょうじ少尉は、鶴見中尉から尾形を監督するように命を受けていました。最も可能性が高いのは、尾形がみょうじ少尉を」

その先を聞きたくない、そう思ったら知らぬ間に、机を殴ってしまっていた。手のひらの熱い痛みに僅かに冷静さを取り戻す。月島の、いつだって冷静な声が私を苛つかせる。それが事実なのは分かっているのに。なまえの失踪後、鶴見中尉から直々に聞かされた。なまえに尾形を預けたのだと。だがもし。もし、尾形がなまえを唆して共に師団から造反したのだと言うのなら。それはなまえに対する明白な侮辱だと思った。

「なまえを、そこらの意思の弱い腑抜けと一緒にするな!なまえは国のため、民のために軍人となる事を決めたのだ!その決意の固さを、愚弄するな!」

聞き分けの無い幼児のように声を張る私を、月島は渋面で見ていた。全て分かっているのに、感情が追いつかない。一番高い可能性を、私は見ようとしていない。月島の目は、明らかにそう言っていた。

だってなまえが、私を捨てるなんて。

「っ、クソッ!」

握り締めた拳の中で、爪が手のひらを切る。なまえが私を捨てるなんて、そんな事、あるはずがない。いつだって私となまえとは共にいた。どんな困難だって分かち合ってきた。私たちは互いに無二の存在のはずなのに。

「……鯉登少尉は、みょうじ少尉が何故失踪されたのか、心当たりは無いのですか?」

静かな月島の声には輪郭が見えなかった。空間に溶けるように発せられたその音を、私は一瞬見失いそうになって、そしてそれが自分に掛けられた物だと気付いて顔を上げた。

「……心当たり?」

「ええ。何か、みょうじ少尉が『軍を離れなければならない』と思う程に追い詰められた事柄に、心当たりは?」

月島の言葉がよく理解出来なかった。だって。

「言われている、意味が分からない。なまえの周辺で、何か『悪い事』があったか?陸士を主席で卒業した。憧れの上官の下で部下に慕われて、御家だって安泰だ。……っ、弟だって生まれた!それで、それで一体何が……っ」

頭を抱える私は気付かなかった。月島の顔が痛ましさに歪んでいた事など。私は知らなかったのだ。なまえの置かれたその身の上など。

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