幼き日々

ばらばらと雨が降るのが煩わしい。まだ気温がそれ程上がり切っていない事もあり、やや肌寒い。なまえの姿が見えなかったので、探していると彼女は縁側でぼんやりと空を見上げていた。

降り落ちる雨を眺めるその横顔が酷く儚く見えて俺はわざと大きな足音を立てて存在を主張した。消えてしまいそうなくらい、存在感を消したなまえがこちらを見た。星屑の瞳にはあまりに覇気が感じられなかった。

「尾形上等兵……」

「風邪引くだろ。部屋に入ってろよ」

「…………うん」

促されているのに動きもせず、ただぼうっと虚空を見つめるだけのなまえの手に触れる。明らかに俺の物より温度が低くて舌打ちが溢れる。なまえは俺にされるがまま、部屋に引き摺り込まれ火鉢の傍に座らされた。膝を抱えるように座り直す彼女は、どこか感傷に浸っているような気がした。

「……何か、あったのか」

「……何も。……でも、雨が降ると、思い出す事があるんだ」

ひたり、と雨漏りのような声がして俺はなまえの方を殊更見つめる事は無かったが聞いているという合図を出した。

「昔、……私が八つか九つくらいの時かなあ。母上が数ヶ月の間、お山の病院に行った事があったんだ。多分、みょうじのお祖母様に辛く当たられていて、相当参ってしまったからだと思うんだけど」

お山の病院。胃が重くなるような言葉だった。昔、俺の母親が入れられそうになったそこを、俺はもう、疾うの昔に忘れていたと思っていた。なまえは俺の感情の揺れ動きには気付かなかったようで元々小さい身体を更に縮こめて唇を尖らせた。

「母上は元々それ程身体も強くなくて、それに、お一人でとても寂しいだろうと思ったんだ。私は母上の事がとても心配で、お見舞いに行きたいとお願いしたんだよ。父上にも、お祖母様にも。でも、駄目だと言われた」

伏目に火鉢の炭を頑なに見つめているなまえが、その手を握り締めている事に気付いていた。だが俺は敢えて何もしなかった。と言うよりも出来なかったと言った方が正しいかも知れない。なまえは虚無を湛えた瞳をしている。

「だから一人でお見舞いに行ったんだ。お山の病院はとても遠かったけれど、幾つか列車を乗り継いで、残りは歩いて。道すがらお花も摘んで、母上は喜んでくれるかなあって私はドキドキしたものだけど」

楽しい思い出を思い出すかのように綻ぶなまえの口許に僅かに安堵のような感情が湧く。彼女の語り口が淡々としているせいで、俺はかえって彼女の話に引き込まれていて、まるで幼いなまえの隣を一緒に歩いているような心持ちになった。両手いっぱいに名前も知らない花を握るなまえが、胸を弾ませる様が見えた気がした。なまえも唇を緩めた。だがそれはすぐに引き結ばれた。

「……でも、結果的に、母上は喜んではくださらなかった。血相を変えて酷く怒られて、私は追い立てられるように家に帰されてしまった」

唇を噛んで、目を眇めるなまえに俺もどうしてか同じような顔をしているような気がした。俺もその時のなまえと同じ気持ちを、知っている気がした。

「『また、母様が怒られるでしょう』って、母上はそう言って私を病室から閉め出した。帰り道は今日みたいな雨が降っていて、病院から駅まで歩くしかなかった私はびしょ濡れで、その格好で二等客車に乗ったから車掌に嫌な顔をされたっけ」

乾いた笑い声を上げるなまえに俺も苦く笑んで見せる。それは災難だろう。なまえも車掌も。なまえは俺の反応に気を良くしたのか、肩を竦めた。

「家に帰ったら父上からもお祖母様からも大目玉だ。…………私はただ母上に会いたかっただけだったのにな。あんなに大事になってしまって、本当に申し訳ない事をしたよ」

少しだけ哄笑したなまえだったが、ふと、疲れたように息を吐いた。息を吐いてそれから、膝を抱えてその小さな身体を守るように丸くなった。

「…………でも、本当は、どこかで期待していたような気がするんだ。母上が私の顔を見付けて表情を明るくするのを。見舞いに来てくれて嬉しいと、そう思ってくれていたならどれ程幸せだったろう」

困ったように微笑むなまえは、俺の顔を見て形の良いその眉を下げた。

「すまない。こんな話、つまらないだろう。でも、どうしてかな。……君なら、分かってくれるんじゃないかって、期待してしまうんだ」

両親が、否、そのどちらかで良い。あの人たちが、己を見て顔を綻ばせてくれたらなって思う自分を、君なら理解してくれるんじゃないかなって、そう願ってしまうんだよ。

それはとても、疲れた声だった。

「なまえ……」

「すまない。雨は嫌いなんだ。話を聞いてくれてありがとう。なんだか最近、君といると要らない感情が蘇ってしまう。早く、みょうじなまえに戻らないと、」

「…………もう、止めたら良いんじゃねぇの」

諦めたようななまえの顔が腹立たしかった。取り繕うような言葉も説得力など微塵も感じられない。それでもみょうじ家のなまえを演じようとするこの女が、とても哀れに思えた。

「……そう、だね。……きっともうすぐ、父上はなまえを廃嫡なさるだろう。そうしたら、もう、止めるよ。…………いいや、止めて、しまいたい」

なまえが握り締める拳に、今度は触れる事が出来た。小さくて、それでいて硬いその手を指先でなぞったら、擽ったい、と彼女が笑った。それはとても綺麗な微笑みだったのに、みょうじ家のなまえがチラついて、俺はどうしてもそれを直視する事が出来なかった。

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