包帯を巻く音だけが、しゅるしゅると空間に溶け込む。浮かない顔のナマエを、ヴァシリは横目で見て、それから再度視線を尾形に移した。彼が見たところ、尾形の様子に特段の変化は無いようだった。
「はい、できた……」
傷に障らないようにヴァシリの二の腕を指で撫でたナマエに、彼は小さく頷く。発語は未だ難しかったが、発声は出来るので彼の国の言葉で「ありがとう」に似た音を発した。ナマエはその言葉を既に知っていたから微笑んで頷いて、それから顔を強張らせた。
「……ここから、動いた方が良いのかな?だれか、私たちを探しに来る?」
緊張と嫌な予感に膝を抱えるナマエの様子に、ヴァシリは唇を引き結ぶ。言われている事の仔細こそ分からなかったが、内容は彼女の表情から明らかだったからだ。
ナマエは何処か安心材料を探すように尾形の傍に寄ると、その頬に指先で触れた。思い詰めたような表情のナマエだったが、僅かに表情を緩めて安堵の息を吐く。触れた箇所から伝わる熱が暖かかったからだ。
「どうしよう、どう、したら……」
狼狽えて忙しなく辺りを窺うナマエを、ヴァシリは静かに見つめていた。それから、静かに息を吐いた。
「あ、頭巾、ちゃん……」
負傷を庇うように立ち上がったヴァシリはゆっくりと尾形に近寄ると、半ば無理矢理彼を担ぎ上げた。それから強い光でナマエを見つめ、空いている手を彼女に差し伸べた。それはまるで「行くぞ」と言っているかのようで。
「あ、う、うん!早く、ここから離れよう。とにかく、何処か休める所へ行かないと……」
慌てて荷物を纏めて立ち上がったナマエは、それからヴァシリの荷物を恐る恐る指差した。
「あの、そっち、持つ、けど……」
何を言われているのか理解したのだろう。ヴァシリはほんの僅かの間逡巡を見せた。しかし小銃以外の荷物を下ろすと静かにそれをナマエの方に押しやった。
「……行こう。きっと、何処かに狩人の山小屋があるはずだから」
己を奮い立たせるように両手を握り締めたナマエの手を取って、誘うようにヴァシリは歩き出した。
三人は何も話さなかった。話せなかった、と言う方が正しいだろう。ひたすらに、獣道を歩き、ナマエの目と耳でより人気の無い道を選んだ。ナマエは弱音こそ吐かなかったが、もう少しも歩けない、という頃だった。
「ぁ……」
ナマエの震えた声の意味を、すぐにヴァシリも理解した。隠れるようにそれがそこにあったからだ。明らかに今はもう使われていない山小屋が。
小屋は使われなくなって随分経つのだろう、埃っぽくて咳き込むナマエを気遣いながら、ヴァシリは尾形の傷に障らないように彼を床に寝かせた。
「っ尾形!大丈夫!?」
途端に駆け寄ったナマエだったが、すぐに深く息を吐いた。意識こそまだ戻っていなかったが、その熱は失われていなかったからだ。
「…………よ、かった、」
ぺたりと座り込んだナマエは、何も言う事が出来ないと言わんばかりにぼんやりとヴァシリを見つめた。
「あの、助けてくれてありがとう……」
輪郭の曖昧な声が空間に溶けるように消えた。ヴァシリは一つ頷いてから、外を指差した。
「……?」
「………………」
名前に通じていないと知ったのかヴァシリは、外を指差してそれから火の気の無い囲炉裏を指差す。それを何度か繰り返した後、ナマエは漸く彼の意味するところを理解した。
「火を、起こしてくれるの?私も……」
ナマエが己の言いたい事を理解したと気付いたのか、ヴァシリはひとつ頷いて二人に背を向けて小屋から出て行った。しかしすぐに上着を脱いで戻ってくると、ナマエにそれを手渡して「ここにいるように」という仕草を見せた。目を瞬かせるナマエに更に身振りでそれを羽織るように指し示したヴァシリはそれ以上何も言う事無く(或いは言えず)小屋を出て行った。
「…………、」
ナマエは震える息を吐いた。息だけでなく、全身が震えていた。寒かった、という事もあったから有り難くヴァシリの外套を羽織った。それでも震えていた。それからそれが安堵による物だと気付いて深く長く息を吐いた。
「なんか、すごく、つかれた……」
我慢出来ないくらいの倦怠感にナマエは堪らず尾形の横に自身の身体を横たえた。寄り添った尾形の身体からは確かに熱が感じられて、ナマエはその熱をより近くに感じるために彼に身体を寄せた。
「あったかい…………」
堕ちて行くような倦怠感に抵抗する術も無く、ナマエはゆっくりと意識を手放した。夢の中で、誰かが己の身体を強く強く、抱いた気がした。
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