独りにはしない

ナマエは暫く俺の家で療養した。俺の父も母も何処かの段階で俺の彼女に対する想いを知っていたようで、彼女が俺の部屋で療養するのを殊更に非難する事は無かった。

ナマエとはあの夕方以来しっかりと、顔を合わせて話した事は無かった。俺はなんとなく、ナマエと向き合うのが怖かった。絵描きの夢を絶たれて、なりたいとも思わなかった軍人になる事が決まって、おまけに幼い頃から大切にしていた幼馴染まで失う事を、俺は怖れた。それなのにナマエはいとも簡単に俺と向かい合おうとする。

「ヴァシリ、待って」

かなり顔色も良くなって、あと1日でも寝ていたらもう、行商にだって行けるだろうと往診の医者に言われた夜に、彼女の着替えを持ってきた俺をナマエは呼び止めた。はっきりとした意思のある声だった。

「……何だ?」

渋々振り返る。ナマエの灰色の瞳が困ったように揺れていた。それは何か言いにくい事を言う時の色に見えた。

「あのね、私」

「……ああ、」

「次の行商に行く前に、一度家に帰りたいんだけど良い?」

「…………ああ?」

それは俺が予想した言葉とは違っていて、俺は一瞬彼女の言葉を受け取り損ねてしまった。ナマエは言いにくそうにもう一度同じ言葉を繰り返した。

「何だかすごく寂しいの。もう一度、お父さんのお墓に行きたい」

「あ、ああ。そうか、そう、だったな。次の行商は俺も一緒に行くって言ったな……」

まさかあの話がまだ有効だったとは思わず(俺はてっきりナマエに俺の想いを告げたせいで彼女は俺に対して困惑しているのだと思っていたから)何だか拍子抜けしてしまった。

「ええ、忘れてたの?ヴァシリが行きたいって言ったのにー!」

驚いたように目を丸くして、それから怒ったように頬を膨らませて見せたナマエはそれからゆっくりと微笑んだ。でも笑顔だけではない悲しみが、そこにはあった。

「ヴァシリにも、お父さんのお墓に来て欲しい……。お父さんは良く、『坊主は元気か?』、って言ってたから……」

灰色の瞳が揺らめく。悲しみと懐かしさを混ぜた複雑な感情が、ナマエの瞳から零れ落ちる。俺がそれを拭っても良いか分からなかったけれど、拭いたかったから、ゆっくりと彼女に近付いて白い頬を指で辿った。

「ナマエ……。俺で良ければ、君について行きたい。君と共にいたい、いつまでだって……」

「ヴァシリについて来てほしい。……私を、独りにしないで」

縋るような表情に頷く。早速両親に許可を取りに行かなければと算段する。しかし両親は全て分かっているとでも言わんばかりにすぐに許可を出してくれた。反対に俺と二人きりにされるナマエを心配せんばかりだ。

「ああ、本当に心配。ウチの子と二人きりなんて!」

「平気ですよ。ヴァシリはとっても優しいから」

出発の日も俺の母親の嘆息を聞いていたナマエは困った顔で微笑んで、それから犬橇の犬たちに餌をやり、水を飲ませ、手際良く荷物を纏めた。俺がやった事と言えば纏められた大きな荷物を抱えて橇に乗せたくらいだ。「しっかりしなさい」とばかりに母親が俺の背中を叩くから酷く居た堪れない気持ちになった。

こうして俺たちはナマエの故郷へと出発した。俺の村からナマエの故郷まで500キロ程の道のりだ。

コメント