とても幸せだった

「トージロー、あーそーぼー」

朝の仕事が一段落して、部屋に篭って何をするでも無くぼうっと天井を見上げて木目の点で絵を描いていた時だった。外から鈴の転がるような声がして、俺のぼんやりした意識を引き戻した。

その声には聞き覚えがあり、だからこそ隣で昨日捕まえたバッタに餌をやっていた藤次郎がニヤけた面で顔を上げたのが見えて苦笑が漏れる。

「おーおー呼ばれてんぞ、トージロー」

「止めてよ、兄ちゃん。……お、俺行ってくるから」

照れたように顔を赤らめながらも嬉しそうに小走りで駆けていく藤次郎は酷く微笑ましいと思った。好いた女に誘われて嬉しくない訳がねえ。そうだ。藤次郎はあの娘、なまえの事を好いている。

なまえは家の近所に住む農家の娘だった。零れ落ちそうなくらい大きな目が良く目立つ、利発そうな娘だ。藤次郎とは歳が近く、男にしては大人しいアイツとはすぐに打ち解けた。要するに幼馴染ってやつだった。

藤次郎はなまえを一目見て惚れ込んだらしく、毎日毎日なまえがどうのこうのと煩いったらない。なまえもなまえで藤次郎の事を憎からず思っているようで、俺ん家となまえん家の間ではもう「約束」が交わされているとかいないとか。

同じ姿勢で寝転んでいたせいで固まった肩を回しながら、起き上がって外に面した廊下からこっそりと二人の様子を窺う。藤次郎が何か必死になまえの関心を引こうと話しているのが見えた。何を話しているのかはここからでは分からないが、なまえが藤次郎の話に呼応して花が咲くように笑ったから、きっと楽しい話なのだろう。それは純粋に、微笑ましい光景だと思った。それと同時に胸の奥から、灼くような焦燥感が湧き上がる。だからだろうか。俺はわざと大きく音を立てた上で何気無い顔で玄関から顔を出した。

「あ、モクタロにぃちゃん。こんにちは」

「よう、なまえ」

それは目が潰れそうになるくらい、明るい笑顔だと思った。なまえにとっては俺など幼馴染の兄であってそれ以上でも以下でも無い存在のはずなのに。なまえの背後で藤次郎がどこか不服そうな顔で俺を睨んだような気がしたが無視した。言いたい事は分かっている。

「モクタロにぃちゃん聞いて。これからトウジロと蛍のお池に行くのよ」

「へえ、あそこは急に底が深くなるから気を付けろよ。あと藤次郎は、昼からの仕事も忘れんなよな」

「もう、兄ちゃん分かってるから。仕事もちゃんとやるよ」

俺の背を押すようにして再び家の中へ追いやろうとする藤次郎はいじらしくて揶揄い甲斐がある。なまえに分からないようににや、と笑ってやったら、これまたなまえに分からないように背中を抓られた。

「モクタロにぃちゃんは何処か行くつもりだったの」

なまえの大きな瞳が俺を、俺だけを映す。どうしてだろう。弟の事を想うならこんな質問、適当に濁せば良いのに俺はつい、馬鹿正直に口走ってしまう。

「別に何処にも用事はねえんだけどな。ちょっとばかし散歩しに行こうかと思っただけだ」

「そうなの?じゃあ、モクタロにぃちゃんもなまえたちと蛍のお池に行きましょう?皆で行った方がきっと楽しいわ」

「え、なまえ……」

藤次郎のあからさまに残念そうな声音に俺はうっかり笑っちまいそうになって、それを堪える。流石にそこまで邪魔する訳にはいかないだろう。ひらひらと片手を振って見せる。

「あー、俺は良い。お前らだけで行って来な。俺ぁちょいと一人でぼんやりしてるぜ」

「そう?……分かった。モクタロにぃちゃんも気を付けてね」

大きな目が三日月の形に歪む。太陽のような表情だと思った。この表情をずっと見つめていたら、きっと俺は目が潰れてしまうだろうなと、その時漠然と感じた。だからこそ、俺は時々この顔を盗み見るだけで良いのだと気付いていた。

「じゃあ、俺たち行ってくる。……仕事には間に合うように戻るから」

「いってきまあす!」

ぎこちなくなまえの手を取った藤次郎が、彼女を先導して駆け出していくのをただ、見送っていた。離れていく二人は、お似合いに見えた。きっと大きくなっても好き合っていたら、二人は一緒になるだろうなあとも思った。

そしてそれは俺にとっては本当につまらない事だと、俺は思っていた。藤次郎となまえが俺の傍で幸せになっていくのを、今の俺がただ見ているしかないのだとしたら、俺はきっとこんな小さな村なんか棄ててしまって、一人で生きていく方が楽なのではないかと思っていた。

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