その幸せを願うなら

秋の風が少しずつ冷たくなってくる。少しずつ、冬の世界がやってくる。冬は嫌いだった。生き物の死の季節だから、食い物が少なくなる。俺の家のような貧乏人たちは、すぐ死んじまう。

「モクタロにぃちゃん」

「……なまえ。どうした」

俺の寄り掛かっていた木の影から、不意になまえが顔を出す。考え事をしていたから気付かなかった事もあるし、あまりにも唐突だったからというのもあって、俺は少しだけ肩を揺らした。そしてそんな俺の様子に気付いたなまえのしてやったりの顔が可笑しくて鼻で笑った。

「難しいお顔で何考えてたの?」

大きな目が、俺を見上げる。何も知らない、幸せそうな顔だ。少しだけ、羨ましくなる。きっとなまえは、明日朝起きたら家族の誰かが冷たくなってるかも知れないなんて、考えた事が無いのだろう。

「何もねえよ。お前は何してるんだ?」

適当に誤魔化して、なまえの頭を撫ぜてやる。柔らかな髪は、童女特有の物だ。きっとこれからもっと美しくなるだろう。

「えっとね、トウジロとかくれんぼしてるの。今は私が隠れる番よ」

成程、それで合点がいった。俺の寄り掛かる木はそれなりに大きな物だ。小さいなまえなら、すっぽりと影に入ってしまうだろう。しーっと唇の前で指を立てたなまえはにこにこと親しみのある顔で微笑んだ。

「モクタロにぃちゃん、なまえが隠れてる事内緒ね」

「へいへい」

遠くで藤次郎がなまえを探し始める声が聞こえた。くすくすと声を殺して笑うなまえは、本当にまだ、子供だ。

「なあ、なまえ」

「なあに、モクタロにぃちゃん」

大きな無垢な瞳が俺を見上げた。綺羅綺羅と輝く瞳は、星を散りばめたようだった。俺は星を見上げないから本当にこの形容で正しいのか分からなかったけれど、よく星を見上げる藤次郎が言っていた。「なまえの目はきらきらしていて、まるで星空みたいなんだ」と。

最初に聞いた時は随分恥ずかしい事を言う奴だと思ったが、藤次郎の話を思い出して星を見上げたら、そこにはなまえの瞳のような空が広がっていた。それはとても美しい光景だった。その美しい星空のような瞳が、俺だけを映していた。俺の息を吸う音が妙に大きく聞こえた気がした。

「お前、藤次郎の事、好きか」

俺の問いが予想外だったのか、なまえは大きな目を開いて首を傾げた。それから俺の真意を量るように俺の目を見た。強い光に目が灼けそうだと思った。

なまえの疑うような目は、しかし、すぐに笑むために細められた。はにかむような、愛らしい顔でなまえは笑ったのだ。

「好きよ。とってもね、大好きなの。いつかね、イッショニナロウって約束したのよ」

「…………そうかよ」

その言葉が何を意味するかも知らない癖に。大人たちの真似をしているだけの癖に。それなのにとても幸せそうななまえが心底、羨ましかった。

なまえを見つめる。手を伸ばして、その頭を撫ぜてやる。なまえは信頼しきった顔で俺を見ていた。俺が幼馴染の兄だから、だろうか。撫ぜていた手を離してやらなければならないのに、何故か時間が止まってしまったように動かなかった。

あーあ、藤次郎ではなくて、俺が。

「あ、なまえ!こんな所にいた!」

「わ、トウジロ!見つかっちゃった……」

「もう、兄ちゃんと話してないで、今は俺とかくれんぼだろ」

不意に藤次郎が現れたから、咄嗟に手を引っ込めた。俺すら気付かなかったから、藤次郎の奴、相当足音を殺して近付いてきたか、或いは俺たちがぼんやりし過ぎたか。弟は俺が纏う不穏な空気なんて何も気付かなかったようで、不満げに唇を尖らせてなまえを責めるように見た。

「別にトウジロを忘れてた訳じゃないわ。次は私が鬼の番よ。そうだ、モクタロにぃちゃんも一緒にあそぼ」

悪気の無い目が俺を見た。藤次郎は少し嫌そうな顔をした。せっかくなまえと二人なのにって顔だ。笑ってしまいそうになるのを無理やり押し殺すから、顔が変になる。

「……いや、俺は良い。やり残した、仕事を思い出したから」

「そっかあ。またねえ」

残念そうな顔のなまえとあからさまにほっとした様子の藤次郎を置いて、俺は用事も無いのに家路を急いだ。やり残した仕事なんて嘘だ。その嘘は藤次郎のためであり、なまえのためであった。俺はちゃんと上手く線を引かなければならないのだ。いつか家族になるあの娘に対して。弟の幸せを願うなら。

何よりも、あの娘の幸せを願うのならば。

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