軍の学校に行くと言い出した藤次郎を、俺も両親も、なまえですらも止める事は出来なかった。二人の婚約も決まってはいたけれど、なまえの年齢を考えれば実際に祝言を挙げるのは少なくともあと一年か二年は先のように思われた。だから時期としては丁度良いと言えばそうなのかも知れなかった。少なくとも周りはそれで納得した。藤次郎ですらも。
「出世して帰ってくるよ。それまで俺を待ってて」
物言いたげななまえの頭を優しく撫でる藤次郎の顔は酷く安らいで見えた。懸念の金の話が解決したのを余程心安く思っているようだった。それに対してなまえは何も言わなかった。ただ、曇り色の瞳を伏して藤次郎の手を握るだけだった。
藤次郎がなまえに別れを告げて東京に向けて出発する日も、なまえは最後まで泣かなかったけれど不安で堪らないって目をしていた。「学校に入るだけだから。心配なんか要らないよ」と藤次郎が笑っているのに、なまえはちら、とも笑わなかった。藤次郎が笑っている時は、いつも笑っている奴だったのに。言葉少なに藤次郎と言葉を交わしたなまえの目が、不意に俺を見た。その目に混ざる色は怨嗟のように見えた。それでもなまえは取り繕うように「モクタロにぃちゃん、トウジロをよろしくね」と笑った。
そうして俺に続いて藤次郎も軍隊入りした。あんなに優しくて荒事の苦手だった弟は人が変わったようだった。学科だけでなく実技も一番の成績で学校を卒業した。配属前に一時帰省して、誇らしげになまえに恩賜の銀時計を見せた藤次郎に、彼女は困ったように笑むだけだった。それから、「お帰りなさい」と俯いたまま口にした。藤次郎も曖昧に笑って「ただいま」と口にした。どこかぎくしゃくとした二人の間の空気が何かの予兆のように思えて恐ろしかった。
だから俺は早く式を挙げてしまえと進言したが、祝言は藤次郎の身辺が落ち着いてからにしようという話になった。正式に配属が決まったら、村で祝言を挙げて、二人で東京に引越せば良いと。二人の新しい生活はもう直ぐ始まるのだ。そしてきっと俺はもう、なまえの事を人知れず想う事はなくなるのだろうなと思った。なまえは藤次郎の嫁でこれからは親族になるのだから。
清国との雲行きが怪しくなるまで、俺はそんな呑気な事ばかりを考えていた。胸を刺す小さくて鋭い痛みを、昇華する事に必死だった。
***
いつの間にか戦いの火蓋が切られ、俺たちの出征は割合早くに決まったような気がする。俺は勿論藤次郎も初めての戦争だ。俺たち兄弟は同じ戦場に征く事が決まった。本土から遠く離れた大陸の奥地だ。きっと手紙も直ぐには届かないだろう。
誇らしげになまえに出征を伝える藤次郎に、彼女は形容するのが難しい顔をした。それは哀しみともどかしさと、そして怒りを混ぜ合わせたような表情だった。
なまえは藤次郎に無理にでも微笑んだけれど笑顔のなり損ないのその顔に、弟も直ぐに気付いて眉を寄せていた。
「大丈夫だよ。まだ、なまえと祝言も挙げてない」
不器用になまえを抱き寄せる藤次郎の胸の中で、なまえは泣いたのだろうか。俺には分からなかった。
出発の汽車の中で、藤次郎との別れを惜しむなまえが、不意に俺の目を見た。その目は鈍く光っていた。はっきりとした感情がそこにはあった。それは藤次郎を戦場送りにした俺への憎しみと藤次郎との別離への哀しみだった。
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