罪はいつも目の前に

花沢勇作の童貞を奪う。訳の分からん作戦だが、やらねばならないのであれば、命に従うだけだ。偶然にも作戦の役に立ちそうな若者も見つけた。身形を整えたノラ坊は形式張った服装に動きにくそうに肩を回した。

「堅苦しいのは苦手だ」

「まあ、気持ちは分かるがな。それにしても中々悪くねえぞ。何処からどう見ても士官に見える」

居心地悪そうにもぞもぞと動くノラ坊は、士官学校に入学した時の藤次郎を思い起こさせた。藤次郎も、慣れない軍装に苦笑いしていたっけ。そういえば背格好も似ているような気がして、俺は一度だけ硬く目を瞑った。深入りする気は無かった。

「それにしても、華族っていうのは大変なんだなあ。好きな子とも一緒になれないんだもんな」

「…………そんなモンだろ。庶民だって、好き合った奴らで一緒になれねえ事もあるだろうが」

俺たちみたいに、とは言わなかった。好き合った者同士で一緒になれるのは幸せな事だ。それはまるで奇跡みたいな事で、たとえ好き合っていたとしても幸せな結末を迎える事が当たり前では無い事を俺はもう知っていた。

「菊田さんは?ヨメさんいるの?」

「……俺?あー、まあ、一応な。……俺に似合わず、出来た嫁だよ」

ノラ坊の服装を整えてやるフリをして、彼とは目を合わせなかった。なまえの事をまともに他人に言う事が出来た事は一度も無かった。これからも、無いだろう。そしてなまえは俺の嫁だと、胸を張って言う事が出来ない事に何処かで罪悪感を覚えていた。俺に対して無理したように笑うなまえの顔が思い起こされたからかも知れない。

或いは藤次郎に向けられる弾けるような彼女の笑顔を、知っているからかも知れない。俺には決して見せない、感情の乗せられた顔だ。

ノラ坊は俺の曖昧な返答にどこか訝しそうな顔をしたが、特に追及してくる事は無かった。それで良かった。俺がなまえを俺の嫁として世の中に紹介するのは何処か違うような気がした。

きっと俺が世間に彼女を嫁だと紹介したとして、世間はそれを特別には思わないだろう。俺ですら俺たちは世の中に腐る程いる普通の夫婦だと思う。その想いが等号で結ばれていない夫婦など世の中には有り余る程いるだろう。だが、俺にとって世界で唯一なまえだけは俺の想いと結ばれてしまってはいけないのだと、そう、確信していた。

「菊田さん、それ何?」

ノラ坊の言葉に我に返る。彼が指差していたのは俺の手の内にあったあの紅い肌守りであった。知らぬ間に手の内で弄んでいたらしい。

引き揚げからの慌ただしさの中で、俺はまだなまえにこの肌守りを返せていなかった。否、最早返せないだろうと思っていた。

なまえに今更藤次郎の事を思い出させたくなかった。それに、保身が働いた事もある。もし、今更これをなまえに返して今以上になまえの心が藤次郎に傾いたら、俺がそれに耐え得るかは分からなかった。

「あー、……先の戦争で嫁さんが作ったんだよ」

「へえ、良いね。手作りのお守りかあ」

何処か憧れるようなノラ坊の言葉に、言ってやりたかった。これは綺麗事じゃあないのだと。俺は藤次郎をみすみす死なせて、あの子が渇望したなまえとの未来を掠奪した唯の罪深い人間なのだと。

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