邂逅

切り立った高台から下を覗く。水面は遠く、もし落ちて運が悪ければ死んでしまうかも知れない。それでも行かなければならない。一つ息を吐いて見上げた空はあの日と同じ輝きを持っていて。彼はゆっくりと微笑んだ。そして思い出す。「彼女」と出会った日の夜を。

***

 それは瞬く星が降るような、静かな夜だった。風も無く、凪いだ海面が鏡のように星空を映している。その星空を割り開いて汽船がゆっくりと進んでいく。
とても大きな汽船だ。ちょっとした波くらいではびくともしないだろうその汽船の甲板で、一人の青年が手摺りに凭れ、身を乗り出すようにして海面を見ていた。否、彼は吐いていたのだ。酷い船酔いのようだ。こんな凪の静かな夜にも、回るくらいの船酔いなのだから。
「おい、鯉登。大丈夫か」
 青年を心配して船室から出て来た仲間に、片手を挙げるしか返事が出来ない彼は、鯉登音之進は込み上げる吐き気にまた手摺りから身を乗り出した。吐き気を我慢しながら僅かに口にした夕餉なんて疾うに吐き戻してしまい、最早出てくる物など胃液ぐらいしかなかったが、それでも吐き気は収まらず、もう二時間以上彼はこうして海面とにらめっこしていた。
 己の情けなさや不甲斐なさ、余りに酷い吐き気に涙すら滲ませつつ、これまでで最も大きな吐き気の波に堪らず、大きく身を乗り出した時だった。
「おい!」
「っ!?」
あれだけ凪いでいた筈の海面が急にぐらりと揺れる。仲間の焦ったような声を背後に残して、体勢を崩した鯉登は真っ逆さまに海面に転落した。
ばしゃん、と耳障りな音がして、次いで夏とは言え冷たい水が纏わり付いて鯉登の動きを封じる。予期せず水中に転落したせいで息を吸う事も出来ず、肺の中には僅かな空気しか残っていない。加えて悪い事に、横を走り去っていく鯉登が乗っていた汽船が巻き起こした流れが彼を水底に引き摺り込んでいく。来年は海軍兵学校に進学しなければならないというのに、彼は十米も泳ぐ事が出来なかった。こんな事になるならば父に反抗せずにせめて、泳ぎだけでも練習しておくのだった、と鯉登がいよいよ死を覚悟した時だった。
「人間は不便だね。水の中で息も出来ないなんて」
「なっ、」
ごぼり、となけなしの酸素が鯉登の口から零れ落ちる。彼は目を疑った。視界の端を横切って鯉登の目の前に姿を現したのは人間の女だった。ただし上半身だけ。目の前の光景が信じられないと言うように驚愕に目を見開く鯉登の視線の先には、人間には到底持ち得ない、揺らめく鰭があった。
(人魚……!?)
それは鯉登がもっと幼い頃に寝物語に聞かされた御伽噺に出て来た架空の存在であった筈だった。そもそもこの近代化の時代に「人魚」なんていう前時代的な存在など……。
しかし真っ当な思考はそこまでが限界だった。肺の中で少なくなる空気が鯉登の身体を深い水の底へ引き摺り込んでいく。死を目前にしていよいよ恐怖が勝り、身を捩らせて浮かぼうとする鯉登を人魚はじっと眺めている。この際何でも良いから助けてくれと鯉登は彼女に向かって手を伸ばした。
縋られた人魚は少し驚いたように小首を傾げ、それからゆっくりと鯉登に近付く。その顔は随分と端正で、こんな状況だという事を忘れて鯉登は彼女に釘付けになった。
「仕方ないね」
言うが早いか、鯉登に近寄った人魚は彼の頬に手を添えると躊躇う事無くその唇に自身のそれを合わせた。突然の事に目を白黒させる鯉登。堪らず目の前の存在から距離を取ったが、ふと息苦しさを忘れている事に気付く。
不思議な事に全身の血が沸騰したような苦しさは影も形も無くなっていて、寧ろ冷たい水が心地良いくらいだった。
「苦しく、ない……?」
「人魚の口付けは少し間水の中でも息が出来るようになるんだよ。さあ、息が出来る内に元いた所に戻りなよ。それから、私の事は誰にも秘密だよ。誰かに喋ったらお前の喉を喰い裂いてやるからね」
 その言葉を最後に、鯉登の頬を鰭で掠めるようにして離れていく人魚を鯉登は目で追いかけようとした。しかし、それよりも先に飛び込んできた仲間が鯉登の襟首を掴んで海面上に引き上げる方が早い。鯉登は咄嗟に思い切り息を吸った。夏特有の湿っぽさはない、清涼な空気が肺から全身に廻ったのを感じた後、彼はふと違和を感じた。途端に重くなる身体にばしゃばしゃと不格好に水を掻きながら彼は仲間に縋りついた。不思議な事に一瞬泳げたような心持ちになっていたのに、海面上で一つ息を吸ってしまえばもう、彼の身体は鉛のように水に沈みそうになっていたのだ。
「お前なあ! 全然上がってこないから死んだかと思ったじゃないか!」
「す、すまない……」
「大丈夫なのかよ」
「ああ……」
ぼんやりと仲間の問い掛けに生返事をしながら、鯉登は未だ、信じられずにいた。人魚という御伽噺の存在にも、自身の「初めて」が人魚だった事にも。
仲間は様子のおかしい鯉登に怪訝な顔をしながらも大きく腕を振って汽船に合図を送る。鯉登が泳げないという事を知っている仲間は実に丁寧に彼を汽船まで導いてくれた。
 しかし汽船に引き上げられても尚ぼんやりと心此処に在らずといった鯉登の様子は仲間たちを心配させた。
 あれやこれやと世話を焼かれ、兎に角着替えて大人しく寝ていろと言われ、反抗する事も無く船室に引っ込んだ鯉登は漸く叫び出したい程の動揺に駆られた。
今見たものは? あれは現実なのか? 自問すれども答えが一向に現れない。どきどきと高鳴る鯉登の心臓は彼に安息の眠りすら与えてくれない。大人しく寝ていろと言われたのに、このままではまた船酔いだ、と鯉登は苦笑してから気付いた。許容量を超える衝撃のせいだろうか。或いは「人魚」の口付けとやらの副産物だろうか。彼の船酔いはいつの間にか収まっていた。
 これ幸いとばかりに備え付けられたベッドに寝転がって、船室の天井の染みを繋いで絵を描きながら、鯉登は先程の光景について今一度思いを巡らせた。未だに信じられなかったが、今でも唇に残る生々しい感触が、それが真実だと鯉登に訴える。感触を思い出そうとそっと指先で唇に触れたが、鯉登の硬い指先ではあの柔らかな感触は再現出来ず、彼は残念そうにため息を吐いて、それから一人赤面した。
 御伽噺の存在に対する子供のような好奇心と、突然奪われた「初めて」の昂ぶりから来る鯉登の興奮は冷めやらず、仲間が船室に下りてきて各々のベッドで眠りに落ちても、彼は寝たふりを決め込みながら寝返りを繰り返した。昂る神経は襲い来る睡魔を打ち払い、結局一睡も出来ずに彼は翌日を迎えた。計画通り港に着いた汽船から降りたその足でもう一度船に乗せてくれと船員に頼み込む鯉登を仲間たちは奇異の目で見た。あれだけ船酔いして、しかも海中に転落したにもかかわらず物好きな奴だと。
 しかし鯉登は必死だった。あの存在を、もう一度見つけ出さなければ己の気が済まぬと感情が訴えていた。理性は疾うにどこかに置き忘れていた。きっとあの人魚の娘に出会った時から。
 残念ながら汽船は函館からすぐに外国へ向かって出発するとの事だったので鯉登を乗せる事は出来なかったのだが、それでも彼は諦めなかった。
 彼は呆れる仲間たちを置いて、今度は海の見える高台を探した。鯉登の頭の中にある所謂人魚という存在は、星降るような夜空の下、岩礁に腰掛けて、その美しい髪を靡かせているものであったからだ。つまり、高台から沖を見渡して目視で人魚を捜そうという訳だ。
彼自身短絡的かとも思ったが、それでも手掛かりが全くない今、使える物は全て使う、なりふり構っていられない程の熱情が鯉登を叱咤していた。
 それからの鯉登は時間の許す限り、あちこちの海が見える高台や入り江や可能ならば船酔いを我慢しながら沖に出てあの人魚を捜した。それはきっと広大な海の中からたった一滴の真水を探し出すような困難に違いない。それでもその苦労をしている時だけは、鯉登は全てを忘れられた。
 何日も家の納屋から引っ張り出してきた望遠鏡を携えて外に行く息子に父は何を思ったのだろうか、兄が生きられなかった時間をこんな風に無為に消費して良いのだろか、鯉登家の跡取りとしてこんな事を。
 纏わり付く水のような自身のしがらみを、鯉登は全てぶつけて人魚を捜した。それでも、人魚の行方は杳として知れなかった。
(どこに、いるというのだ……)
 それでも誰かに捜索を手伝って貰うなどという事は鯉登には考えも付かなかった。あの人魚が言った警告が頭を過ぎったから、という事もあったがどちらかと言えば彼女を「独り占め」しておきたいという思いの方が強かったからだ。
 そして鯉登は遂に思い付いた。もう一度彼女に出会う方法を。それは単純で突拍子もなく、しかしだからこそすぐには思い付かない方法だった。それは彼女と出会った時を再現するというもの。つまり、鯉登がもう一度溺れるという。
 普段なら鯉登だってもっと思慮深くあっただろう。しかし遅々として進まない彼女の捜索にいい加減業を煮やしていた事もあった。そして何より鯉登は思い立ったら行動が早い青年だったのだ。そして話は冒頭に至るという訳だ。

***

切り立った高台は鯉登が予め下調べをした、飛び込んでも海底がそれなりに深く、少なくとも浅瀬で身体を打ち付ける事の無いと予想される場所だった。尤も、あくまで予想であるから実際は飛び込んでみるまで分からないのだが。
高台の端に佇んで下を覗いた鯉登はごくり、と生唾を飲む。思ったよりも高い。しかし今更後には引けない。最早これは鯉登にとって意地の勝負であった。
死ぬ積もりは無かったから遺書なども何も用意していない。もしこれで海底に身体を打ち付けて死んでしまったら。死ななかったとしても何か怪我をしてしまったら。そんな理性が一瞬鯉登の脳裏を過ぎる。しかし折角過ぎった理性が鯉登を引き留めるよりも先に、彼は地面を蹴っていた。
「うわ、ああああっ!」
情けない悲鳴を上げながら鯉登は真っ逆さまに海面へと墜落していく。それは一瞬の事だったが彼には何秒もの長い時間に感じられた。
身体が水面を割った音がした時にはもう、鯉登の四肢には重たい海水が纏わり付いていた。何とか浮き上がって海面に顔を出したが、塩辛い水をしこたま飲んでしまい、その事が彼の焦りを増長させる。これからどうすれば良いのだ?
そう、鯉登はこの計画を実行するにあたってある可能性を全く考慮に入れていなかった。すなわち、誰も助けに来ない可能性を。
人魚に助けを求める予定だったから鯉登は簡単に人間が助けには来られないような人目に付かない場所を選んでしまった。しかも海底には全く足が付かない。
(まずい! まずい、まずい!!)
必死に水を掻いて浮き上がろうとするけれど、水を掻けば掻く程に何故か鯉登の身体は重くなって沈んでいく。なけなしの体力を振り絞って遠くに見える浜辺にいる人々に向かって助けを求めたが、距離が邪魔をして彼の声は届かない。
絶望が身を支配していく感覚を、鯉登は鮮明に味わった。身体の芯から冷たくなっていくような感覚に、遂に指先一つ動かせなくなって沈みかけたその時だった。彼の耳に、あの声が飛び込んできたのは。
「……また溺れてるの?」
呆れたようなその声に鯉登は辛うじて首を巡らせて声のした方を見た。
「……お前に、会いに来たんだ」
確りと言葉を継ぐ事が出来たか鯉登には分からなかった。ごぼごぼと聞きづらい音を吐き出す彼に、目の前の少女は少し不思議そうな顔をした。しかし鯉登が溺死寸前であるという事に気付くと、仕方なさそうに彼に近付き、掠めるようにその唇を奪った。
「っ……! また……っ」
「それはこっちの台詞。取り敢えずこっちに来なよ。陸地まで案内するから」
至近距離で見た少女の顔はやはり端正で鯉登の視線は思わず柔らかそうな彼女の唇に釘付けになる。
しかし少女はそれには気付かなかったのか、すぐに身を翻して鯉登の先導をして泳ぎ出す。慌てて鯉登も彼女を追い掛けて見様見真似で海面を足で叩いた。
不思議な感覚だった。どれだけ不格好な泳ぎでも水を蹴るだけで何米も進んでいくような、そんな感覚だった。息継ぎをしなくても進む、寧ろ息継ぎは邪魔なくらいで。目の前を揺らめく鰭が先導してくれている不思議な安心感。いつまでもこうしていたい、と鯉登は目を細めた。
「ほら、ここなら陸続きに帰れるよ」
しかし夢のような時間、というのはあっという間に終わってしまう物で。いつの間にか鯉登は見慣れた入り江に辿り着いていた。そこは彼が人魚捜しに疲れた時に疲れた身体を癒すための秘密の入り江だった。
人魚は自身の役目は終わったと思ったのか、身を翻して沖に帰ろうとする。鯉登は慌てて彼女を呼び止めた。
「っ、待ってくれ!!」
「……何? 人間とは関わるなって言われているんだけど」
首だけで振り返った人魚を改めて鯉登はまじまじと見る。つやつやと輝く美しい髪に、輝く星を閉じ込めたようなきらきらとした瞳はまだ女を知らない鯉登には刺激的過ぎた。思わず目を逸らしてしまった彼に、海の中の少女は疲れたようにため息を吐いた。
「用が無いのなら、帰るけど」
「駄目だ! 用は、ある……。そのために、わざわざ飛び降りたのだから……」
「一体何なの?」
鬱陶しそうに髪を波打たせた少女に、一瞬気圧された鯉登だったが、精一杯の勇気を掻き集めて口を開いた。
「その! あ、ありがとう……」
少女がどんな顔をしているのか見る事も出来ず、俯く鯉登に暫し静かな時が流れる。少女から何の反応も受け取れず、もしや彼女は海に帰ってしまったのではないかと彼が唇を噛んだ時だった。
「それだけ言うために、死ぬ思いをまたしたの?」
「っ……!?」
膝まで海に浸かっていた鯉登から少し離れた所に、彼女はいた。輝く星の瞳を真っ直ぐに鯉登に向けて。その視線の力強さと、彼女の長い髪が張り付く白い肌の織り成す艶っぽさに彼は思わず喉を鳴らした。
「人間って、馬鹿なんだね」
可笑しそうにくすくすと笑う少女に鯉登の頬は真っ赤に染まる。
「わ、笑うな! 男子たる者、受けた恩は忘れないのだ!」
「だからって、あんな高い所から飛び降りたの? やっぱり馬鹿じゃない。もし私が助けに来なかったらどうする積もりだったの?」
「う……。そこまでは、考えていなかったのだ……」
がくりと肩を落とす鯉登に、少女はまた声を上げて笑う。玉を転がしたような澄んだ声に、鯉登の心臓は早鐘のように強く早く打った。そうとも知らず、少女は笑い過ぎて目の端に浮かんだ涙を拭うと、ぱしゃりと音を立てて、その鰭で海面を打った。
「さあ、もう帰らないと。人間は昼に生きる生き物でしょう」
「そんな……っ。あの、また会いに来ても良いか?」
鯉登の言葉に人魚は呆れたように眉を顰める。
「何を言ってるの? あれだけ死にそうな目に遭って、まだ懲りてない訳?」
「自分でも、どうかしていると思う。だが、また会いたいと、思ってしまうのだから仕方ないだろう……!」
身体の横で拳をぎゅう、と握り締めて思いの丈を少女にぶつける鯉登に、少女は真っ直ぐ彼を見た。輝く星空の瞳に夜空の星々が落ちてくるような錯覚に、鯉登が呑まれそうになっていると、人魚の少女は静かに深く息を吐いた。
「ねえ、教えてくれる? 人間が馬鹿なのかしら。それともあなたが? もしかしたら私が馬鹿だっていう可能性もあるけれど」
「どういう意味だ?」
「物分かりが悪いわね。明日の夜もここに来なさいって言ってるのよ。いくら夏とはいえ、そんなに濡れた状態でいたら風邪を引いて死んでしまうわ。人間は弱い生き物なんだから」
肩を竦める少女に言われた言葉をじわじわと理解した鯉登は慌てて首を何度も縦に振る。その必死な様子に可笑しさを擽られたのか、また小さく笑みを零すと小さく「また明日」と零して美しい鰭を翻して沖へ向かって泳いでいく。
後に残された鯉登は離れて行くその存在にじっと見惚れていた。兄が亡くなってから初めてだったかもしれない。明日が楽しみで仕方ないと思ったのは。明日も誰かに会いたいと思うのは。
何処をどう歩いて帰って来たのかも分からなかった。びしょ濡れで帰ってきた息子に彼の母親はいたく心配して、何があったのかと根掘り葉掘り聞いてきたが、それも適当にいなして鯉登は自室に引っ込んだ。彼の母親の心労は如何ほどだったろう。濡れ鼠で帰ってきた息子が鼻歌を歌いながら自室に引っ込んだのだから。
ただ、当の本人はというと、そんなことは全くと言って良い程気にしていなかった。彼は初めて出会った未知なる生き物に興味津々だった。
早く明日にならないかと、少しでも体感時間を早めるために寝てしまおうと布団に入った鯉登だったが、未知への興奮はそう簡単に彼を夢の国には追い遣ってくれない。何度も何度も寝返りを打つ鯉登が漸く微睡みに落ちたのは、暗かった空が明るくなる頃であった。
微睡みの中で、鯉登は夢を見た。それはあの人魚と共に再び海中を泳ぎ回る夢だった。時に揺蕩うように、時に競争するように。冷たい水は鯉登の行方を阻む物ではなくて、寧ろその背を押してくれた。
――ああ、気持ち良い
そこには悲しみも落胆も無くて、ただひたすらに無心で、鯉登は人魚の少女の背を追った。まるで彼女を航海の道標にするかのように。
目が覚めたのは太陽が随分高く昇ってからだった。しまったと身体を起こしてから、鯉登は今日が休日であった事に思い至って安堵の息を吐いた。それから時計を確認して、昨日の人魚との約束まであと半日程である事を知り、ほんの僅かに唇を緩める。
目を瞑れば鮮明に思い出せる彼女の輝く星空の瞳や今でも耳に残る玉の声をまた感じられるのだと思うと夜が待ち遠しくて仕方なかった。
結局鯉登は待ち切れずに日が落ちるよりも早くあの入り江に足を運んでいた。自分でも浮付き過ぎているのは分かっていたが、それでも構わなかった。はっきりと言おう。鯉登は完全にあの人魚の少女に魅了されていた。
今か今かと少女を待ち侘びる鯉登の何と滑稽な事か。うろうろと浜辺を歩き回り、ちょっとした水音にもぱっと顔を上げ、それがただの音だったと知るとがっくりと肩を落とし、またうろうろと歩き回るのだから。
そして漸く水平線の向こうに日が隠れ、鯉登が待ち侘びていた夜がやって来た。太陽はまだ水平線の下から主張を続けていて、空はやや紫に染まっていたが、それも徐々に東側から濃紺に支配されていく。約束の時間だった。
「あれ、本当に来たの」
待ち侘びていた声は唐突に訪れた。それらしい水音一つ立てずに、ただあの玉の声だけが聞こえ、鯉登は勢い良くそちらを見た。いた。あの人魚の少女は当然の如く昨日と何一つ変わらない姿で、鯉登が立っている所から少しばかり離れた位置に上半身を起こして揺蕩っているようであった。
呆れたような声音とは正反対に、少女は興味深そうに鯉登の様子を窺っている。しかし未だに警戒は解いていないのか、鯉登が少しでも近付く素振りを見せれば、きっと彼女はあっという間に沖に逃げてしまうだろうという事は窺えた。
「約束したのだ! 男に二言は無いぞ!」
「ふうん。皆から人間は嘘吐きだって聞いていたけれど、違う奴もいるのかな。まあ、どうでも良いか」
ぱしゃぱしゃと遊ぶように自身の鰭を海面に打ち付けた少女はそして、核心に迫るように鯉登を見つめた。
「それで、何の用?」
「え?」
「用があったから昨日私を引き留めたんじゃないの?」
至極尤もな指摘に鯉登は言葉に詰まった。もう一度会う事が目的だった訳だから、それ以上の用事など彼は持ち合わせてはいなかった。それでも怪訝そうな顔の少女を見ていたら、何か言わなくてはという気持ちばかりが先を急ぎ、彼はつい口を開いていた。
「その……っ、どうして、私を助けてくれたんだ」
「……は?」
素っ頓狂な声を上げた少女に、自分でもこれは無いだろうと、鯉登は思った。彼女との関係を繋ぎ止めておけるような、もっと何か他の言葉があっただろうと。彼は口下手な自分をこの時ほど呪ったことは無かった。
だが口から出てしまった言葉を戻す術など当然ながら存在しない。鯉登は祈るような気持ちで少女からの返答を待った。彼女は鯉登の言葉を反芻するように、首を傾げて思案しているようであった。
「分からないよ。そんなの」
「……え?」
今度は鯉登が頓狂な声を上げる番であった。目の前の少女は白くて柔らかそうな手を柄杓にして海水を救っては落としている。月光に照らされたその幻想的な光景に、彼は息をするのも忘れて見惚れた。
「人間の大きな船が通るって言うから、面白半分で見に行ったら、あなたが海に落ちて来た。皆は放っておけって言ったけど……、気付いたら身体は動いてた」
「皆? 仲間がいるのか?」
鯉登にしてみれば浮かんだ疑問をそのまま口にしたに過ぎなかったが、少女は僅かに警戒を強めたようだった。硬く強張った表情で彼を睨み付ける。
「私たちの事を誰かに言ったら、八つ裂きにしてやる」
「そ、そんな積もりじゃない! 絶対言わない!!」
「どうだか。人間は信用しない」
吐き捨てるように言った少女はしかし、それから少し思い直したように肩を竦める。
「けど、あなたは変わっている。ずっと様子を窺っていたけど、最初に別れた時から私の事を一言も誰にも言ってない」
「当たり前だ! そう約束したのだから!」
「そうね。そういう事にしておきましょう」
堂々巡りの話に飽きてしまったのか、少女はこの話は終わりと言わんばかりに嘆息した。それから疲れたように首を回すと鯉登を見上げる。
「もう良いかしら? もうあなたの用は終わったでしょう」
「えっ! ま、まだ……!」
「……? これ以上何を聞きたいの?」
「違う! 私は人魚のあれこれが聞きたくてここに来たんじゃない!」
「じゃあ何のために?」
「お前に、会いたくて来たんだ!」
鯉登の渾身の叫びに少女は驚いたように目を見開いた。跳ねるように彼女の鰭が水面を叩く。少女は鯉登の真意を推し量るように彼を見つめた。
「嘘を言っているようには聞こえないけど……、どうして私に会いたい訳?」
「その、それは私にも分からない……。だが初めてなんだ。こんな感情を抱いたのは! 明日も誰かに会いたいと、明日が楽しみだと! 私は兄が死んでから初めて感じた!」
鯉登の言葉に少女はぴくりと肩を揺らす。そして僅かに気遣わしげな顔で鯉登の様子を窺う。
「……お兄さん? 死んじゃったの?」
「……ああ。清との戦で」
その言葉に心当たりがあったのか、こくりと頷く少女は先程までの澄ました様子から一転、悲しげな表情をした。
「そうなんだ……。寂しいね」
「……、うん。寂しい……」
静寂が二人の間を支配して、気まずい空気が流れる。鯉登も少女も俯いたままただ、時間だけが流れていた。それは数分にも満たなかっただろうけれど、少なくとも鯉登には数十分にも感じられた。しかしそれは思いの外簡単に少女によって打ち破られた。
「明日、同じ時間に」
重苦しい沈黙からは考えられない程、それは軽い返答だった。驚いて顔を上げる鯉登に、少女はもう一度同じ言葉を繰り返す。そして彼を導くように手招いた。
「……良いのか?」
「うん」
近付いてくる鯉登に少女も近付く。腰まで水に浸った所で、漸く彼と少女は対等な視線を得た。初めて間近に見た星降る瞳に鯉登は心臓が早鐘を打つのを感じる。どこか不安を感じる程、高鳴る鼓動に彼は眩暈すら覚えた。
「あなた、今凄く緊張しているでしょう」
「っ、悪いか……」
揶揄うような口調の少女に鯉登はさっと顔を赤らめる。揶揄った張本人はくすくすと可笑しそうに笑い、それから彼の頬を慈しむように撫でた。弾かれたように少女の顔を凝視する鯉登に、彼女は静かに微笑む。
「悪くないよ。私も、緊張してる」
彼女の頬が僅かに赤らんでいるのは鯉登の気のせいなのだろうか。少女は指の腹で鯉登の頬を軽く擦ると寄せては引く波に身を委ねるようにして彼から僅かに距離を取る。
正直に言って鯉登はそれをとても残念だと思った。そして思った時にはもう彼女の細い腕を掴んでいた。
「……何」
「…………何なの、だろう」
お互いに顔を見合わせて怪訝な顔をする二人の間を柔らかな波が規則的に打ち寄せ引いていく。海に波音があって良かったと、鯉登は場違いにも思った。波音が沈黙を掻き消してくれるから。
「……明日も、絶対来るからな」
「良いよ」
柔らかな少女の腕を握り込む自身の手の内の感触にどぎまぎしながら、鯉登はようやっとそれだけを言う事が出来た。それなのに、少女は呆気無い程にすぐ言葉を返したため、彼は拍子抜けした。
「ほ、本当に来るからな?」
「駄目って言っても来るんでしょう」
仕方なさそうに微笑んで、少女は優しく鯉登の手に自身の手を重ねて静かにその手を外させた。一瞬の喪失感に襲われた鯉登だったが、すぐに「明日がある」と思い直す。
名残惜しくはあったが少女から離れた鯉登は確かめるようにもう一度、輝く星空の瞳を見つめた。頭上に光る星屑を閉じ込めたような瞳は嘘偽りなく輝いているように、少なくとも鯉登には思われた。
「じゃあ、また明日」
「うん。……また明日」
お互いに示し合わせたように背を向けて二人はそれぞれの場所へと帰っていく。浜辺に上がった鯉登が一度だけ振り返ってみると、そこには少女の姿など影も形も無かった。
鯉登の濡れた身体に浜辺の砂が纏わり付く。しかし彼はその鬱陶しさなど認識していなかった。
天を見上げ、ほう、と安堵の息を吐く。それは純然たる安堵であった。彼女に、また会えてよかったという。
(あ……)
そうして鯉登は気付いた。件の少女の名前を、まだ聞いていない事に。彼の頭の中では少女はいつも「彼女」とか「人魚の少女」とか呼ばれていたため、鯉登は彼女の呼び名を聞くのを忘れていたのだ。
三度も出会っていて、しかも命の恩人の名前を聞きそびれるなんて何たる失態、と決まり悪さに苛まれながらも、彼の口端は緩んでいた。
(明日も、会える……)
誰も知らない自分だけの秘密が心地良くて、鯉登は一人でくすくすと笑った。そして濡れてしまった服を着替えて(昨夜の反省から、彼は服が濡れても良いように着替えを一式、鞄に詰めて持参していたのだ)家に帰った。
門限を破った鯉登を彼の母親はきつく叱ったが、彼には余り堪えなかった。彼の父親は相変わらず鯉登の顔を一瞥すると自室へと戻っていった。鯉登には、一言も無く。
その事を、鯉登はもう、残念だとは思わなくなっていた。彼の父は、鯉登平二は、その長男を戦争で喪ってからもう随分と、次男である鯉登には関心を見せなくなっていたのだ。鯉登が何をしようが怒りもしない、褒めもしない。
父の関心を引くためにありとあらゆる事をし尽くして、鯉登は漸く気付いた。きっと優秀な兄が死んで、そうではない自分が生きている事に、父は落胆しているのだろう、と。
父の背中を黙って見送った鯉登は、もの言いたげな母を残して自室に戻った。代り映えのしない部屋だった。
途端に溢れ出した憂鬱を誤魔化すようにため息を吐いた鯉登は気を取り直して、机の上の簡易本棚から一冊を抜き出した。それは日記帳であった。
兄が亡くなってから時折、鯉登はこの日記帳に誰にも言えない自分の感情を吐き出していた。悲しみや苦しみ、痛み、この世のあらゆる悲観的な感情を。
しかし今日初めて、彼はそれに前向きな内容を書き込もうとしていた。死んでしまった兄に僅かに罪悪感を抱きながら、鯉登は空きページを見つけると、鉛筆を走らせ始めた。
時に軽快に時に迷いながら、鯉登は鉛筆を動かす。頭の中はあの少女の事でいっぱいで、早く会いたい、また会いたいという気持ちが溢れ出していた。
感情のままに自身の想いを綴った鯉登は日記帳を元あった場所にしまうとそのまま布団に潜り込んだ。着替えなければという思いはあったものの、それよりも吸い込まれるような眠気の方が勝っていた。今朝は昼過ぎまで眠っていたというのに、随分と疲れてしまっていたようだ。睡魔に足を引っ張られるようにして、鯉登は眠りへと誘われていった。余りに疲れていたのか、その夜彼は夢を見なかった。
次に目が覚めた時、何時間眠っていたのか、鯉登には瞬時に判別が付かなかった。それから枕元の時計を探す。ようやく手に取った懐中時計を見て彼はため息を吐いた。約束の時間までまだ半日以上あった。
今日は休日だったが家で雇っている家庭教師が訪れる日であった。はっきり言ってこの家庭教師の事を嫌っていた鯉登は一瞬逃げ出してしまう事を考えて、そして止めた。あの少女に会うのに少しでも後ろめたい気持ちではいたくなかったのだ。
結局鯉登はその日の授業全てを酷く真面目な態度で受け、家庭教師を驚かせた。彼が手放しで自分の事を褒めるのを右から左に受け流しながら、鯉登は早々にあの入り江へと向かった。約束の時間まで三十分前の事である。
鯉登が入江に到着したのは彼が予定していたより幾分か遅かった。少なくとも昨夜よりは遅かったから、彼は焦った。もしかしたら人魚は待ち草臥れて帰ってしまったのではないかと思ったからだ。
波打ち際で靴を濡らしながら必死に沖に目を凝らす鯉登だったがそこには誰もいない。その事に彼は肩を落とした。その時だった。
「遅かったね」
「っ!」
背後から待ち望んでいた声が聞こえて、勢い良く鯉登は振り返る。そこにはあの少女がいた。
「すまない! 遅くなってしまった!」
「別に構わないけど、何かあったの?」
気遣わしそうに、鯉登の様子を窺う少女に鯉登は慌てて首を振って彼女の不安を打ち消した。
「いや、家庭教師が家に来ていたんだ。そのせいで長く拘束されていた」
「家庭教師?」
「ああ、父が雇った。……私が、兄のように優秀な人間になるために」
兄の背中がちらついて、恥じ入るように鯉登は俯いた。その様子に少女は困ったようにその形の良い眉を寄せる。
「それって昨日話していたお兄さんの事?」
「……ああ。優秀な兄だった。優秀で、優しくて。私なんか足元にも及ばない。きっとみんなが思っている。私が死んだ方が良かったと」
人魚の少女が戸惑っている事に鯉登は気付いていた。彼自身彼女を困らせたい訳では無かった。それなのに鯉登の口はいとも簡単に自身の想いを吐露していた。誰にも告げた事の無い、彼の心の奥底を。
鯉登の告白を、少女は黙って聞いていた。さざ波が訥々と話す彼の言葉を掻き消していく。少女は僅かに陸地にいる鯉登に近付いた。
「……すまない、こんな事を聞かされてもつまらないだろう」
「別に構わないけど……、一つ気になる事があるわ」
「何だ?」
「お兄さんが死んじゃってから、あなたは一回でも誰かの前で泣いた?」
「え……?」
呆気に取られた顔をする鯉登に少女は可能な限り近付く。それでも浅瀬に阻まれた二人の間には幾らか距離があり、彼女はもどかしそうに手招きした。
「どういう、意味だ?」
「そのままの意味よ。お兄さんが死んじゃってから、誰かと『悲しい気持ち』を分かち合った?」
輝く星空の瞳が鯉登を射抜く。彼は咄嗟に応える事が出来なかった。悲しみを分かち合う方法を彼は知らなかった。軍人の子は泣いてはならぬ、そう教えられていた。
「おいで」
大人びた声が鯉登を誘う。ふらふらとよろめく足取りで少女に近付いた彼を彼女は包み込むように迎え入れた。
伸ばされた少女の手が少し躊躇うように鯉登の頬の上を辿っていく。ゆっくりと彼の日に焼けた顔を眦から頬へと順を追って撫でていく少女の柔らかな指先を感じながら、鯉登は自分が泣いている事に初めて気が付いた。一度気付いてしまえばそれは後から後から彼の頬を流れて落ちていく。必死に涙を拭おうとする鯉登の手を、人魚は優しく押し留めた。
「泣いて良いんだよ」
「ごめん……っ、ごめん、なさい……っ」
「寂しいから泣いているんでしょう? 謝らなくて良いよ」
鯉登の頭を抱くようにして抱く少女の胸で、鯉登は抱えている膿を吐き出すかのように泣いた。悲しかっただけではなかった。喪った兄を、心遠く離れた父を、何もかもに中途半端な自分自身を想って、彼はただ、泣いた。
「大丈夫だよ。大丈夫。……寂しかったね」
その間、少女はずっと鯉登の身体を抱いていた。それでも彼女の冷たい皮膚の温度と鯉登の温もりは混じる事はなく、それは当然の事である筈なのに、彼は何故だかその事が酷く寂しく思えてならなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。さざめく波の音が不意に鯉登の耳に甦ってくる。まだ洟を啜りながらも、少しばかり落ち着いた鯉登は漸く自身の体勢を思い出して赤面した。少女の耳も僅かに赤く、きっと同じ事を考えていただろう。
終わりは始まりと同じく緩やかであった。合図が無くても示し合わせたように二人はどちらからともなく距離を取る。
お互いに照れたように顔を見合わせて、鯉登は口の中でありがとう、と小さく呟いた。男子としての矜持が変な意地を張ってしまって、それをはっきりと告げる事を妨げる。それでも少女には伝わったのだろう。彼女は小さく頷いて、気を取り直したようにその鰭で海面を軽く叩いた。
「今日はもう帰る? 何か用があるなら明日も来るから」
「大丈夫だ。……そう何度も恰好悪い姿を見せられるか」
「恰好悪いとは思わないけど、そう言うのなら少しだけお話しましょう」
濡れたままの姿なのに、そんな事も気にならないくらい鯉登の心臓は高鳴っていた。両手に触れた少女の柔らかな感触がまだ忘れられなくて、その手に残っているような気がした。
その余韻が鯉登の舌を縛り付け言葉を飲み込ませる。聞きたい事は沢山あったのに彼が口に出来たのは、ああとも、ううともつかない音だけであった。その様子を察したのか、少女は間を持たせるように、形の良い手で水を弄んでいた。
漸く鯉登の息が整うまで、彼女は五回程水を掬っては落とし、掬っては落とす。ぱしゃぱしゃとした水の弾ける音が鯉登の心を落ち着かせた。
「ずっと聞きたいと思っていた事があったんだ」
「うん? 何?」
「その、お前の……名前。……あ、私は音之進だ。鯉登音之進という」
鯉登の言葉に少女は意表を突かれたような顔をした。随分と驚いているようで星空の瞳が零れ落ちそうになっている。特にこれと言って変わった事を言った自覚の無かった鯉登は首を傾げた。
「どうしたのだ?」
「……得体の知れないものに、易々と大切な名を教えてはいけないよ」
呆れたように仕方なさそうに、少女は肩を竦める。
「どういう、意味だ?」
「私たちのような存在に名前を教えるってことは、取って喰われても仕方ないって事。名前を与えるって事はそれだけ大切な事なんだよ」
聞かん坊の子供を見つめるような顔で、言葉を紡ぎながら、彼女は更に続ける。気のせいか、星空の瞳が怪しく光る。
「もし私があなたを誑かそうとする積もりなんだったら、どうする気なの?」
怪しく微笑む少女だったが、鯉登は意に介さないというように大きく首を横に振った。
「そんな筈無い。お前は私を助けてくれた。命の恩人を信用しないのは人として間違っている」
「…………はあ」
きっぱりと言い放った鯉登に、少女は数回瞬きをしてから今度こそ呆れたようにため息を吐いた。それでもその顔に見えるのは呆れよりも親しみの方が勝っているように鯉登には感じられた。
「あなた、何だかすぐ騙されそうね。優しくしてくれる人間には、大抵何か裏があるから気を付けなよ」
「むぅ……、どうせ騙されるならば相手を信じて騙されるべきだと思うのだが……」
不満そうに唇を尖らせる鯉登に、少女は小さく笑い声を上げる。そして一際大きく腕を振って、海水を掻き上げた。水滴が放物線を描き、月光に照らされてきらきらと光る。その中で笑う少女は、美しかった。
「何するんだ」
「あはは、ごめんなさい。何となく、こうしたくなったの。そうだね。あなたが名前を明かして、私が言わないのも公平じゃないよね。……なまえ、だよ」
「なまえ?」
「そう、なまえ。それが私の名前」
鯉登は口の中で彼女の名を呟いた。なまえ、なまえ、と何度も。不思議な事にその名前は彼女にとても馴染んでいるように鯉登には感じられた。彼女のためにあると言っても過言ではないような響きに、鯉登の想いは募る。
「なまえ、なまえ……。綺麗な響きだ」
「ありがとう。音之進も、素敵な名前」
なまえ、音之進、と暫くお互いにお互いの名を呼び合う二人を月が優しく照らす。不思議な事に、鯉登はなまえに音之進と呼ばれる度に不思議な感覚に陥っていた。まるで生きる事を、存在を許されたかのような気持ちになるのだ。兄を喪ってからずっと感じていた「罪悪感」のような物が薄らいでいくのを、彼は感じていた。
「明日も、来て良いか?」
「駄目と言っても来るんでしょう?」
柔らかな銀の光に照らされたなまえの手を握り、鯉登は生まれ変わったような心地を味わった。この安寧を、失いたくないと彼は強く思う。
なまえも既に鯉登に気を許しているのか、澄ました様子で肩を竦めてまるで姉のように振る舞うものの、その顔は可笑しさに溢れ、緩んでいる。
「私、人間の友達は初めて」
「……私もだ。人魚の友人は初めてだ」
顔を見合わせて二人は笑い、鯉登は思い付いたように、海水をなまえに向けて掻き上げた。先程同じ事を鯉登に対して行ったなまえもまさか自分がやり返されるとは思っていなかったのか、驚いたように顔を手で覆う。
「何するの……」
「ごめん。何となく、こうしたくなったんだ」
呆れたような顔のなまえに先程かけられた言葉と同じ物を返し、鯉登は微笑んだ。今日は名残を惜しまずになまえと別れられる気がした。
「じゃあ、また明日。……音之進」
「ああ、また明日。……なまえ」
どちらからともなく手を振って二人はお互いの住む世界へと帰っていく。浜辺に上がって濡れた服を着替えてから、鯉登は一度振り返って先程までなまえと共にいた海を見た。
そこは静かな海面に規則的な波音が聞こえるだけで、先程までの柔らかな時間が嘘のようだった。なまえの姿も影も形も無く、鯉登は少しだけ残念に思った。その時だった。
「またね、音之進」
不意に遠くからなまえの聞き慣れた声が聞こえる。驚いて目を凝らすと少しばかり沖に彼女が見えた。
「あ、ああ。またな」
「こんな所で着替えたら誰かに見られちゃうよ!」
「なっ! 見ていたのか!?」
悪戯っぽい笑い声を残して今度こそなまえは海中へと姿を消した。残された鯉登は暫く赤面して、それから脱ぎ捨てた服を畳むと帰路に就いた。心臓が上擦って止まらず、なまえの輝く星空の瞳が笑みの形に歪むのを想像したら、胸が熱くなって仕方なかった。この胸の高鳴りさえあれば、たとえ両親に何と言われようと、否、誰に何と思われようと構わないと、彼は思った。
予想通り帰宅した鯉登を彼の母親はまたきつく叱った。
「一体どこに行っていたの!」
「…………」
「音之進! 何とか言いなさい!」
鯉登は何も言えなかった。人魚が、なんて言ったら母はきっと卒倒してしまうだろう事が、彼には手に取るように分かった。それにやはり何と言っても彼女を「独り占め」しておきたいという気持ちは今も変わらなかった。
「音之進……。あなた悪いお友達と付き合っているの」
「っ、そういうのではありません!」
「じゃあ、一体何だというの!?」
「それは……っ」
言葉を失う鯉登に彼の母親は眦を吊り上げる。
「平之丞はこんな事無かったわ!」
「っ……!」
それはきっと咄嗟に出てしまった言葉で、母の本心ではなかっただろう。彼女はその息子亡き後も気丈に振る舞っていた。兄と比べて未熟な鯉登にも平等に接していた。それでもきっと、知らない間に蓄積していたのだろう。優秀な息子を喪った悲しみが。それがただ、今、言葉に出てしまっただけなのだと、鯉登は分かっていた積もりだった。
「……すみません」
呆然とした顔の鯉登の様子に母は何を言ったか自覚したらしい。その表情を強張らせた。しかし鯉登の身体は母の表情を確認する前に自室へと歩みを進めていた。母も追い掛けてこようとはしない。なまえに会って高揚した、膨らんだような彼の心持ちは跡形もなく萎んでいた。
自室に戻り、何も考えられず逃げるように布団に身体を預けた鯉登を責める者は誰もいない。
じわりと滲む涙を擦るように拭って、鯉登は奥歯を噛み締めた。それから閉じた目蓋の裏側になまえの姿を思い浮かべる。彼女の輝く星空の瞳が笑みの形に変わるのを想像した所で、鯉登は漸く少しばかり落ち着いた。
母を責める気にはなれなかった。あの言葉は鯉登が自身に対して思っていた事と同じだったのだから。優秀な兄の代わりにもし自分の命を投げ打つ事が出来たのなら。それは鯉登が何度も考えた「もしも」だった。
ごろりと寝返りを打って布団を頭から被れば、視界は闇に包まれ、鯉登は世界に一人きりになった。故郷の鹿児島に比べれば随分涼しい函館ではあったが、やはり布団を被ると暑かった。けれど鯉登はそのままでいた。今だけはただ、世界に一人きりでいたかったのだ。否、二人きりだ。
掛け布団の夜空に星々を描き、その下で揺蕩うなまえと自身の姿を想像する。暗闇の世界になまえと二人きり、そんな想像をしながら鯉登は目を閉じた。眠れないかと思っていたけれど、存外疲れていたのか、彼は知らぬ間に眠りに落ちていた。夢など見たくなかった。
目が覚めたのは暑かったからだった。それも当然だろう。夏の盛りに頭から布団を被って寝ていたのだから。しこたま汗をかいて起き上がった鯉登の頭の中にはもう、今晩なまえと会う事しかなかった。
流石にこのままの恰好で外を出歩くのは気持ちが悪かったので、鯉登は水を浴びようと風呂場へと向かう。偶然か幸運か、誰とも顔を合せなかった事に、彼は安堵した。
頭から水を被り大方の汗を流した後、彼は適当に髪を拭ってから新しい服を着た。家の中の気配を窺い、なるべく誰とも顔を合わせないようにして、鯉登は家を出た。向かう先はあの入り江だった。
入り江には誰もいなかった。約束の時間までは間があったのだから当然と言えば当然なのだが、鯉登は少しがっかりした。なまえなら、いてくれるのではないかと彼はどこかで期待していたのだ。
ため息を吐いて、鯉登は踵を返す。約束の時間まで、どこかで時間を潰す方法を考えなければならなかった。
仕方なく辺りをぶらつく鯉登であったが、その足はふと、ある店の前で止まる。そこは花屋だった。
色取り取りの花々が、あちこちから私を買って、と鯉登を誘っている。その中で蒼い花弁が一際彼の目を引いた。
花に疎かった鯉登はその名も知らなかったが、それはなまえの輝く星空の瞳に酷く相応しい気がして、気付いた時には鯉登の右手にはそれが握られていた。
花を贈るなんて我ながら気障過ぎたかと、気恥ずかしさに襲われながら、鯉登は右手に握ったそれを弄ぶ。差し出した時のなまえの表情が今から目の裏に思い浮かぶようで鯉登は一人笑みを堪えながら再び入り江へと向かった。街の人々が「あの」悪童鯉登音之進が花を持って歩いているなどと噂し合っているのも気にならなかった。
入り江の影に腰を落ち着けて、鯉登はポケットに入れていた文庫を取り出した。それは丁抹の童話だった。なまえという存在を知ってから少しでもその本質に近付きたいと思った鯉登が自宅の書斎を漁って見付けたのだ。題名は『人魚姫』。正にそのままだ。
表紙を捲り早速読み進めていく鯉登を、夏の蒸し暑い風が撫でていく。滲み出る汗を拭いながらも頁を捲る手は止まらない。人魚姫の運命、課せられた業、その結末。読めば読む程に、頁を捲れば捲るほどに、彼は物語に引き込まれていった。そうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。気付けば辺りは暗くなっていて、手元の文庫はもう一文字たりとも読み進めることは難しくなっていた。結末までもう少しだったのに。鯉登が少し残念に思った時だった。
「もしかして待っていた?」
不意に波打ち際の少し向こう側から柔らかな声が聞こえて来て、鯉登は顔を上げる。そこには彼が待ち侘びていた彼女がいた。
「待っていた。待ち侘びて、昼からここにいた」
「早いよ。私たちは人間に見つからないよう、昼間は海の底にいるのに」
呆れたようにくすくすと声を上げて笑うなまえに、鯉登も穏やかに笑う。昨夜の憂鬱な気持ちは束の間忘れていた。ゆっくりとなまえのいる浅瀬に歩を進めていく鯉登は、一瞬彼女と同化したような心持ちになった。それは全く不思議な感覚だった。海原の手に頬を撫でられたかのような涼やかで冷たい感覚。その感覚を追い求めるように彼は口を開いていた。
「海の底はどんな世界なんだ?」
「青くて、何処までも広い世界が広がってる。私は海の青が大好きなんだ」
「そうか。じゃあ、これをなまえにやる」
緊張で僅かに震えた手の内に握った蒼い花は鯉登の手の熱で少し萎れていた。それでもなまえには気にならなかったようだ。大きな星空の瞳を更に大きくしている。
「これ……」
「た、たまたま目に入って……! それで、なまえに似合いそうだと思ったから……」
しどろもどろになりながら言い訳染みた言葉を吐き出す鯉登になまえはするりと、鯉登の手からそれを奪う。それから花弁を夜空に透かすように掲げた。
「露草だね」
「そうなのか?」
「そうだよ。露草。青くて綺麗。海の青みたい……」
薄らと幻想的に微笑んだなまえは実に絵になっていて、鯉登は目を奪われた。先程まで読んでいた童話の挿絵の何倍も何十倍も、彼女は美しいと彼は確信していた。
「ありがとう、音之進」
「……うん。気に入ってくれたなら、嬉しい」
真っ直ぐに何の衒いも無く名前を呼ばれて、つい視線を逸らしてしまった鯉登になまえは首を傾げるが、何も言わなかった。その代わりに手渡された露草たちの一輪をそっと鯉登の髪に挿し入れた。
「何をするんだ」
「可愛い。似合ってるわ」
悪戯っぽく笑ったなまえは同じように自分の髪にも露草を挿し入れ「お揃い」と笑う。高鳴る心臓を抑えるように胸に手を当てた鯉登になまえは声を上げて笑った。
「あなたは素直な人間だね」
「……? そう言われたのは初めてだ」
「そうなの? でも普通は私のような存在に会うのを『待ち侘びていた』なんて言わないわ」
なまえは肩を竦めて形の良い眉を寄せる。その顔が困っているように見えて鯉登は慌てて口を開いた。
「め、迷惑だっただろうか」
「そんな事はないけれど。でも、私たちより格段に短い人生を私なんかを待つのに使うなんて勿体ないような気がして」
「そんな事はない。私がなまえを待ちたいから待っているんだ」
鯉登としては自身の正直な気持ちを述べたに過ぎなかったがなまえにはちょっとした衝撃だったようだ。彼女はさっと顔を赤らめてそれから、何でも無かった風を装った。しかしながらその小ぶりな耳は赤く染まっていたが。
「……じゃあ、そう言う事にしておく。何をして待っていたの?」
「本を読んでいたんだ。人魚について書かれた異国の童話だ。人間の王子に恋をした人魚が人間になるという……」
「私たちの話が人間の世界にも伝わっているんだね。その様子だと海の魔女様の事も出て来たのかな」
「ああ! 魔女の薬を飲むと人魚は人間になるんだ」
共通の話題に鯉登の声も弾む。彼の言葉になまえは苦笑して、僅かに得意そうに語り始める。
「本当はね、七年の労働の対価だよ」
「七年? 薬ですぐじゃないのか?」
「魔女様に言わせるとそんなに都合の良い話は無いんだって。七年間厳しい労働に耐える事が出来たら、願いを一つだけ何でも叶えて貰えるんだよ」
興味深そうになまえの話に耳を傾ける鯉登になまえは鯉登の言葉を促すように海面を軽く鰭で叩いた。
「それで、結末は読んだ?」
「いや、まだ読めていないのだ。読む前に暗くなってしまって。なまえはこの結末はどうなると思う?」
鯉登に問い掛けられて、なまえは僅かに思案するように首を傾げる。それから僅かに首を振った。
「分からないけどさ、きっと二人は結ばれないと思うよ」
当然のように言い放ったなまえに鯉登は虚を突かれる。物事に優しさを見出しそうなこの少女がぴしゃりと言い放った事が彼には少し意外だった。
「どうしてそう思うのだ? もしかしたら幸せな結末があるかも知れない」
「うーん……、上手くは言えないけど。『私たち』と『あなたたち』は違い過ぎるから、かな」
濡れた髪を耳にかけて、なまえはため息を吐く。それは最初から分かっている事を告げる、そんな表情だった。なまえは鯉登に貰った露草の花弁を指でなぞりながら、それを彼に示す。その花弁は海水に浸ったせいか少しずつ萎れ始めていた。
「ほら、この花も海水じゃ萎れちゃう。人間と私たちじゃ住む世界が違うんだ」
鯉登に或いは自身に言い聞かせるような口振りに、鯉登は居た堪れなくなって俯いた。何と言って良いのか分からなくて、唇を噛む彼になまえはそっとその指先で鯉登の頬に触れた。
「音之進は素直だね。素直で優しい。今だって服が濡れるのに、私に近付いてくれる」
「……っ、それは私がそうしたいからで」
「……ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」
顔を綻ばせるなまえは美しくて、鯉登はその表情に見惚れた。高鳴る鼓動に彼はもう気付いていた。出会って日が浅い事も、過ごした時間が短い事も鯉登には関係が無かった。彼ははっきりと気付いていた。なまえの事が好きなのだと。
自覚してしまえば後は簡単で、鯉登は頬に触れるなまえの柔らかな冷たい手に自身の硬いそれをそっと重ねた。
「音之進?」
不思議そうに首を傾げるなまえを鯉登はその手を引いて、我が腕の中に引き入れる。
「ちょ、っ音之進!?」
なまえの驚いたような声にも、鯉登は怖気付かなかった。彼は服が濡れるのも構わず、その胸を押すなまえを更に引き寄せた。
「音之進ってば!服が……」
「そんなのどうだって良い。今はただ、こうさせてくれ」
「っ……!」
拙い言葉に腕の中のなまえの身体が固まるのを、鯉登は感じた。彼女が困ったような顔をしている事にも彼は気付いていた。しかし止める事など出来そうもなかった。彼はなまえの冷たい身体をぎゅう、と抱き締める。
「音之進……」
「ごめん。いきなりこんな事をされてもなまえが困るのは分かっている」
項垂れるように鯉登は一度言葉を切る。それでも伝えたい言葉の半分も言葉にはならず、彼はもどかしい思いを噛み締めた。尚もなまえの顔を正面から見つめることは出来ない。
「……なまえといると楽になるんだ。息苦しい世界で、なまえの隣でだけは苦しくない」
「そう……」
なまえの耳許に吐き出すように言葉を落とす鯉登に、彼女は困ったように言葉を吐き出す。彼女はただ、鯉登の腕の中で息すら詰めて身を硬くしているようだった。
「……私はなまえが」
鯉登は言葉にしてしまおうと思っていた。なまえに対する自身の、自覚したばかりの想いを。それは生まれたての感情で告げるには幼過ぎるような感もあった。だがそれでも芽吹いたばかりの感情を今、形にしてしまわなければ見失ってしまいそうで鯉登は小さく息を吸った。
「なまえが好きだ」
「……!」
びくりとなまえの肩が跳ねるのを、鯉登は感じた。それが戸惑いだったのか嫌悪だったのか或いはもっと別の感情に起因するものだったのかは彼には量り兼ねた。ただ彼は打ち寄せる波の数を数えながらなまえの言葉を待った。
「……音之進の」
どれくらいの時間が経ったのだろう。潮騒三回分かもしれないし、或いはもっと寄せては返したのかも知れない。なまえはゆっくりと口を開いた。その声は震えていた。
「音之進の、気持ちは嬉しい。本当に……、でも」
鯉登の腕の中、なまえは静かに顔を上げた。その瞳に降り注ぐ星空に、鯉登は吸い込まれそうな気がして目を瞬かせる。
「やっぱり、私とあなたは違い過ぎる」
がつんと頭を殴られたような、そんな気がした。今までにだって拒絶された事はあったというのに、なまえから告げられた言葉にはそれ以上の衝撃があった。
「でも」
「……じゃあ、聞くけど、音之進は永遠に私と一緒にいられると思う? 永遠にこの逢瀬を続けられると?」
「……っ、それは」
ごちゃごちゃな感情のままに反論しようとする鯉登を封じたのは酷く簡単で、しかし重い問いだった。なまえの問いに、鯉登は言葉を継ぐ事が出来なかった。分かっていたからだ。自身となまえの住む世界の違いに。口篭もる鯉登になまえは彼の顔を見つめたまま悲しげに眉を寄せた。
「……音之進は、音之進の世界を棄てられないよ。私も無理に棄てて欲しくない」
「棄てなければならないのか? 棄てなければ、私たちは共にいられないのか?」
鯉登の問いに、なまえは答えなかった。ただ、輝く星空の瞳を静かに伏せて、唇を噛んでいた。鯉登はなまえに縋るように自身の額を彼女のそれと合わせる。輝く星空の瞳が鯉登の瞳に一気に近くなって、彼には彼女の瞳の輝きが見えなくなった。
「頼む、私にはなまえしかいないんだ……。お前に拒絶されたら、もう……」
それは鯉登の心からの想いだった。その言葉の先が、一体何だったのか、鯉登には分からなかったけれど、それでも、彼女を喪って生きていける自信など、彼には無かった。
「……音之進」
なまえの長い睫毛が震えて、鯉登の睫毛に擽るように絡む。鯉登は見た。彼女の思い詰めたような瞳の色を。
「ごめんね、音之進……」
その言葉が鯉登が聞いたなまえの最後の声だった。なまえの冷たい指先がそっと鯉登の頤を持ち上げる。そして彼女は静かに、そして優しく彼に口付けた。
「……さよなら」
耳に聞こえた「知らない声」を何故か何度も何度も反芻しながら、鯉登は意識が遠くなっていくのを感じた。そして次に目が覚めた時、彼は己が何故この入り江にいるのか、何故濡れ鼠になっているのか、そして何故泣いているのか、全く分からずただ海を眺めていた。
水平線の向こう側にいる誰かを探そうとしていたような気がしたのだが、結局鯉登は何一つ思い出せず、喪失感だけを抱えて帰路に就いたのだった。

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