左の頬を向ける

任務帰りにナマエを見た。ただでさえ苛立って仕方ねェ時に、あんなスカした野郎の顔を見て苛立ちが更に増した。ナマエは浮浪者の相手をしていたのだ。和かに膝を折って目線を合わせて、慈愛に満ちた顔で。アイツは聖職者だとホルマジオが言っていた。くだらねー、どうせウソだ。

恐らくナマエが押しに弱そうだと思われたんだろう。施しを求められているようだ。ナマエも無視すりゃあ良いのによォ~~!苛立ちを力付くで解消するのは慣れている。

「ナマエ!!」

「っ、え、ギアッチョさん……!?」

苛立ちに任せてナマエの手首を掴んで浮浪者から引き離して、足早にその場を立ち去る。背中で浮浪者の怒号が聞こえたが、ひと睨みで黙った。クソがよォ!

「ちょ、ま、待ってください!」

少しばかり引き摺りながら歩いていたら、手首を握った手を振り払われて、少し意外だった。コイツはされるがままなのだと思っていたからだ。振り返ってナマエの顔を見たら、その眉は顰められていた。コイツがこれ程までに不快感を見せたのは見た事が無かった。

「なんなのですか?私はあの方に用事があって……!」

「はァ?カモにされてるテメェを態々助けてやったんだろーが!!

「っ、余計な事をしないでください!……テオの仇だったかも知れないのに!!」

取り乱した声にマジに怯んだ。コイツのこんな声を聞くとは思っていなかったからだ。まだ配属されて数ヶ月の新人とはいえ、任務もそれなりにこなせている。その癖誰に対しても当たりが柔らかい。おおよそ暗殺者には向いてねェ「優しい」人間だと思っていた。誰の事も否定しない、芯の無い人間だと。それなのに。

何かを言おうと思ったのに喉が張り付いたように機能しない。俺が何も言わないと知ったのか、ナマエは俺を一瞥すると背を向けて駆けていった。あの浮浪者のいる場所に戻るのか、或いは俺から離れたかっただけなのか。最後に見た顔が泣きそうだったように思えて、それがグルグルと俺の脳裏に居着いて、感情を刺激した。

苛立ちが頂点に達して、傍に停められていたアルファロメオを殴る。運転席から男が出てきて詰め寄られたのでソイツも殴っておいた。苛々する、何もかもに。

荒れ狂ってアジトに戻った俺を、仲間たちはいつもの事だと笑ったが、「違うのだ」と言いたかった。言えなくて、余計に苛ついたが。簡単な任務だったので俺は日帰りで、分け前の話もその日の内にする筈だったのにナマエはその席に来なかった。リゾットからナマエが分け前を辞退したと聞いた時に、あの泣きそうな顔がチラついて、また苛立ちがぶり返した気がした。

***

それから暫くナマエとは任務やら何やらで入れ違いになって顔を合わす機会は無かった。俺としては苛立つ要因がおらず、安定するかと思いきやそうでもなかった。居なければ居ないで気になって苛立つのだ。

しかも暫く顔を合わせてねェから油断していたのだ。アジトのリビングのドアを開けたら、ナマエがソファに座っていた。俺はまさかナマエがいるとは思わねェから、ダセェ事に肩が揺れた。ナマエは俺の様子には気付かなかったのか「こんにちは」と平坦な声で言った。

「よォ。…………ひ、一人かよ」

「……?ええ。ホルマジオさんからアジトで待っておくように言われました」

何だか色々「楽しい所」を教えてくれるそうです。

この間の事など無かったかのように、起伏の少ない声でナマエは現状を説明すると、両手でマグカップを持って中身をひと口飲んだ。ホルマジオの野郎とは着実に仲を深めているようだ。

「ギアッチョさんも、何か飲まれますか?」

「オメェは何飲んでんだ」

「ココアです」

「はっ、マンモーニかよ。俺はいい。どーせすぐ帰るしな」

オメェがいるからとは言えなかったが(いつもの俺なら口にしているだろうに、全く調子が狂う)、ナマエは特に気にしなかったのか「分かりました」と浮かせた腰をまたソファに沈めた。

「…………」

「…………」

無言の時間にナマエがココアを飲み下す音だけが偶に聞こえる。気詰まりだ。思えばナマエと二人きりになったのは初めてかも知れない。二人での任務もまだ無い。コイツの周りにはいつも誰かしらがいる。最初は顔を顰めていたプロシュート辺りも、ナマエがそれなりに有能な奴だと知ったら態度を軟化させた。リゾットですら、だ。

「…………ギアッチョさん」

「っ、な、んだよ」

考えに耽って、ナマエの不意の声にまた肩を揺らした。ダセェ事この上ねェ。ナマエはマグカップをローテーブルに置くと、グレーの瞳で俺の顔をじっと見た。見定められているようで目を逸らしたくなるが、矜持が許さず挑むように見返した。

「先日は、失礼しました」

見つめられたまま、そう言われた。僅かに悲しみを含んだ声のような気がした。

「あの日は少し焦っていて。あなたは私を助けてくれようとしていたのに、失礼な事をしてしまいました」

目蓋と眉を少し下げて、ナマエは申し訳なさそうな表情を作った。それから、「あの人はテオの仇ではありませんでした……」と力無く肩を落とした。

「テオ?」

「ええ。私の弟、私はテオと呼んでいました。あくまでも私がそう呼んでいただけで、両親は違っていたのやも知れませんが。…………生まれる前に、両親と共に御国に帰ったのでもう分かりません」

ナマエの過去を、その片鱗ですら聞いたのは初めてだった。配属された時すら僅かな情報しか与えられなかったし、ナマエ自身も己の事を開示しないから俺は、というか俺たちはナマエの事を何も知らなかった。

「私は探しているのです。生まれる前に御許に帰ったテオのために。手を下した人間を、探しているのです」

ですから、先日は取り乱しました。気を悪くされたでしょう。

グレーの瞳が俺を見る。少し吊った目が怜悧な印象を与えるのに、全体の比率で見ると柔和な印象に見える。正直なところギャングの世界には良くある話だと思った。だが、それをコイツ自身が開示した事が僅かに俺の琴線を擽った。

「べ、別によォ、」「ナマエ~、帰ったぜ~!」

気にしてねェ、と続ける筈だった。それをタイミングの悪いホルマジオが邪魔しやがった。苛立ちのボルテージが振り切れそうになって怒鳴ろうと思った。そうしたら、手に、柔らかな感触があった。

「良かった。これからも、よろしくお願いしますね」

感情に薄い筈の表情が色付いている気がした。唇が弓形に歪んで、少し不恰好な笑みがそこにはあった。急激に顔が熱くなる。触れられた所から、熱が伝播していく。

「ナマエ……なんだ、ギアッチョもいたのかよ」

「いちゃ悪ィかよ!!」

「これから俺のオススメのリストランテにナマエを連れて行こうと思うんだが、お前も来るか?」

「いっ……、行く」

反射的に行かねェよ!と返そうとして、無理やり言葉を押し出したせいで妙な返答になっちまった。ホルマジオも普段は誘っても来ねえ俺が来ると言うから少し驚いているようだ。俺だってホルマジオだけだったら行ってねェよ!

ナマエだけが状況を分かっていないのか、「マグカップを片付けて来ます」とキッチンに行ってしまった。ホルマジオの妙な勘が働いたのかニヤけ面を見せてくるので蹴っておいた。

コメント