面影を見る

ジョナサンに街を案内してもらってから、僕は時々街に行くようになった。リバプールの街はロンドンの貧民街とは違ってとても整備されている。歩いているだけでもそれが良く分かる。それに僕の身形がそもそも違うから店に入っても嫌な顔をされないのが何より良い。

今日は貸本屋でニーベルンゲンの歌を借りてきた。本を読むのは好きだったけれど家にある売れる物は全て父親に売り払われてしまったから、僕は家にあったたった一冊の本を、母の遺した聖書を床板の隙間に仕舞って何度も何度も隠れて読んだ。それこそ覚える程に。

街から屋敷までの道を歩いていたら、何だか胸糞の悪い場面に通りかかった。女の子が餓鬼共に絡まれていたのだ。僕はそもそもにおいて暴力は好きじゃあない。それは手段であって嗜好ではないからだ。そしてそれ以上に嫌いなのは女の子に理由無く狼藉する奴だった。

「何してるの」

「おっ!ナマエ!」

「……っ、」

餓鬼共の中には以前ジョナサンから紹介されて顔を知っている奴もいた。だからだろうか。彼らは随分気安く僕の名前を呼び、女の子は新たな「敵」の登場に顔を引き攣らせた。近付いて女の子と餓鬼共の顔を見比べる。女の子は怖がるように一歩後ずさった。

「何してるの、って聞いてるんだけど」

見れば分かるけど一応聞いてやるのは話の段階を踏むためだった。僕の顔が不機嫌な事には気付かなかったのか、餓鬼共はニヤニヤと嘲るようにその手に持った可愛らしい帽子を見せた。

「エリナの帽子だよ!川に浮かべてやろうぜ」

「止めて!っ返して!」

エリナと呼ばれた女の子の声には涙が混じっている。針のような棘に思考を支配されたような気がした。粘着質な感情が僕の身体の内側を、血管の中を這い回っていく。こんな状況、幾らでもある筈なのに、僕は何故か母さんの事を思い出した。そうしたら僕を支配する感情はより硬くより鋭く「彼ら」を攻撃しようと武装した。

「……返してやりなよ」

「は?」

それでも努めて冷静に、そう、声を掛けた。常に冷静でなければならない。ここはロンドンの貧民街じゃあないから、「対話」で解決しないといけないのだ。だって僕は、「僕ら」は常に見られている。だから僕は暴力を封じた。生まれと素行を常に結び付けたがる輩に足を掬われないように。

「ナマエ?」

「返してやりなって、言ったんだよ」

僕の感情に彼らが気付いたのか分からないけれど、それでもいつもと様子が違う事には気付いたのかおずおずと僕に女の子の帽子を渡す。花の飾りのついたボーターはまだ新しく、買ってもらったばかりなのだと知った。

「あんまり、見苦しい真似をするなよな。……僕は女の子が理由無く乱暴されてるの、嫌いなんだよ」

「っ、紳士気取りかよ!」

「おい、止めろって!そいつはディオの……」

知らない顔の餓鬼が掴み掛かってくるのを仲間が止めているのを他人事のように聞いていた。「武装した感情」が思考を完全に塗り潰した時、僕の身体は自然と動いていた。隙だらけの動きを躱して、ガラ空きの顔面に拳を入れる。良い音と感触がして餓鬼はその場に伸びてしまった。睨むように残りの連中を見れば彼らは伸びた仲間を引っ張って尻尾を巻くように逃げて行った。

「…………。……はい」

「え、あ、ありがとう……」

「じゃあ、」

「ま、待って!」

帽子を渡し、帰ろうとしたら引き留められた。振り返ってよく見たけれど、その子はやっぱり母さんには似ても似つかなかった。さっきは、母さんを思い出したのに。

「何?」

「あなた、ナマエ、でしょう。ジョジョのお家に来た……」

「そうだけど、だったら何?」

「あの、ありがとう……。ジョジョからいつもあなたの事を聞いているわ。とっても優しくて賢い子だって」

この女の子がジョナサンの知り合いだとは知らなかったが、別にだからといってどうという事はない。ただ、ジョナサンが僕の事を誰かに良く言っている事は知らなかった。それも僕の本質とは正反対の感想を。

「ジョナサンは見たい物しか見てないみたいだね」

「……どうして?」

「本当に僕が優しくて賢いなら、トラブルを暴力なんかで解決しようとは思わないよ」

殴った手に残るひりひりとした痛みに拳を見ると擦り剥けていた。さっき殴った時に歯でも当たったのだろう。女の子は僕の視線の先を覗き込んで大袈裟に驚いた。

「まあ、大変!擦り剥いているわ」

「良いよ別に。家に帰って消毒してもらうから」

「でも……。せめて川で洗いましょう?」

女の子は可愛らしく儚げな見た目に反して意思が強かった。僕の手を握ると川まで強く引いていく。川の水で僕の傷を真剣に洗っているその横顔を見ていた。

「……君はジョナサンのガールフレンドなの?だからって別に僕に優しくしなくても良いんだよ」

「た、ただの友達だわ。それに助けてもらったんですもの」

頬を染めて俯く女の子は、僕の顔を上目で見て微笑んだ。

「エリナよ。エリナ・ペンドルトン」

「ナマエ・ブランドー」

微笑むエリナの顔はやっぱり母さんとは全然似ていなかった。

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