え、なんて?

私には今物凄く悩んでいることがある。その問題はそれはもう、私の頭をとても悩ませている。どれくらい悩ませているかというとその人のせいで憧れの鶴見さんのお話がまともに聞けなくなるくらいには。

というのも……。

「―――――!―――――、―――――!!」

(なんてー!?)

目の前の男の人は鶴見さんの部下の人だ。浅黒い肌、きりっとした目鼻立ちの整った顔。きっと世の女性にとっても好かれるだろうその人の名前をしかしながら私は知らない。というのも初対面の時からずっとこの調子なので何を言っているのかさっぱり分からないからだ。鶴見さんとか月島さんに名前ぐらい聞けばよかったのだろうけど、ついついその機会を逸してしまってここまで来てしまったという訳だ。

知り合ってからそれなりに経過しているので今更「貴方のお名前は?」或いは「あの人のお名前は?」などと聞くのも憚られる。というか名前も知らないあの人に名前を聞いたところで帰ってくるのは聞き取ることの出来ない叫びのような返答だけなので意味は無いのかもしれないが。勿論鶴見さんや月島さんに聞けば簡単に答えの返ってくる問いなのかもしれないが、それをして最後本人に「あいつお前の名前知らなかったらしいよ」なんてことが伝わってしまえば間違いなく叱られる。だってあの人絶対怒りん坊さんだ!

という訳で私は今日も今日とて名前も知らないその人にめちゃくちゃ怒鳴られながら必死に嵐が通り過ぎるのを待っているのである。

「――――、――――。――――――!」

「はあ、そ、そうなんですねー!わ、私もですかね!」

「―――――――!?―――――――!!」

「す、すごーい!」

正直に言って何を言っているのか全く、全くもって分からない。でも何も返事をしないのは無視したようで気が引けるし、かといって正直に何を言っているのか分からないと言うのは怖い、めっちゃ怖い。という訳で編み出した方法が取り敢えず無難な返事をする!だ。

するとその人(もう面倒だから仮に「太郎さん」とでもしておく)はうむうむと何か頷いた後にきらきらとしたまるで少年のような顔で微笑んだのだ!なんと!そんな顔も出来るのか!と私が妙な感慨に浸っていると彼、基、太郎さんはがしりと私の肩を掴むと熱っぽい瞳で私を見る。

(え……、)

まるで恋でもしているようなその瞳に縫い留められて身動きが取れない私に太郎さんはきゅう、とまた無邪気に微笑む。浅黒い肌がやや赤らんでいるのは私の気のせいだろうか?気のせいではない気がする。初めて見る男の人のそんな顔だったけれど、でも少しばかり可愛いとも思ってしまう。もうとっくに成人した軍人さんを可愛いなんて思うのは失礼だろうか?でも思ってしまったのだから仕方ない。

「あ、あの……」

「……なまえ」

切ないくらいに震える声で名前を呼ばれて身体がびくりと揺れる。そんな声の出し方も知っていたのかという驚きが私の全身を駆け巡る。太郎さんは僅かに目を細め視線を落とすが、その顔が妙に色っぽい。いつも自信に満ち溢れた顔の自信の無さそうな表情にどき、と心臓が上擦るのが感じられる。自覚してしまえばその上擦りは更に大きくなってしまって私の身体中に熱を送り出す。頬が凄く熱くなっているのが自分でも分かってふい、と顔を逸らしてしまう。

「――――――――、―――――……」

静かに囁かれても相変わらず何を言われているのか全く分からない。これは方言と言うやつなのだろうか?だとしたら相当きつい訛りだ。そこまで考えてから私は漸く私が太郎さんについて何も知らないことを思い知らされた。

名前も、出身地も、そもそもにおいてこの人が鶴見さんとどういう関係にあるのかも知らない。つまり、何も知らない!

「なまえ、――――――――」

名前の部分しか聞き取れないが恐らく「よそ見をするな」とでも言われているのだろう。有無を言わせず逸らした顔を元に戻され太郎さんの方に向けられる。気のせいだろうか、先ほどよりも私と太郎さんの顔の距離が近い気がする。

(え、こ、これって……!)

「なまえ……、ほんのこて、むぞかぁ……っ」

うっとりとしたような顔が近付いてくる。待って、待ってってば、まだ心の準備が……!!!もう駄目だ、取って食われる。色んな意味で!!!!と私が諦めてぎゅう、と目を瞑った時だった。

「なまえ、鶴見中尉がお呼びだ……、おっと、失礼」

「つ、月島さああああん!!!」

この状況でもう逃げられないと思っていた私には障子の向こう側から現れた月島さんは神様のように見えた。ありがとう月島さん!貴方がいてくれて本当に嬉しい!

ばばっ、と太郎さんから距離を取り月島さんの背中に隠れる。べ、別に太郎さんのことが嫌いな訳じゃない!何言ってるのか分からないし、めちゃくちゃ怖いし、声大きいけど、さっきの笑顔は可愛かったし、あと間近で見た顔は凄く迫力があって綺麗だった。

でもそれとこれとは話が別だ。多分、本当に多分だけどこの人は今私に口付けを……。

自覚してしまえば頬がかああっと音を立てるように赤くなるのを止められない。なんだって太郎さんは私なんかを……、そう思ってちら、と月島さんという壁から首を出して太郎さんを見た時だった。

(ひええええ……)

物凄く凶悪な顔の太郎さんがこちらを睨んでいた。あ、これ死んだ。もう次二人きりになった時に殺害されるやつだ。この人強そうだから、軍刀で真っ二つだ。それくらい彼の顔は凶悪で殺意に溢れていて、そしてすごく羨ましそうだった。……ん?羨ましい?

「月島、貴様ァッ……!それで私に勝利したつもりなのではあるまいなァッ!!!!」

「意味が分かりません鯉登少尉……。睨まないでください、なまえが怯えています」

「はっ!?―――――――!!なまえ!!!」

「えっ!?え、な、なんて!?」

唐突に鯉登さん(さっき月島さんが言ってたから多分当たっているはず。本当最初から月島さんとかに聞けば良かった……)に顔を向けられて何事か話しかけられるもいつもの通りさっぱり意味が分からずつい馬鹿正直にそのことを口にしてからはっとする。

(い、今まで適当に返事してたのがばれた!?)

やばい、失敗した。恐る恐る鯉登さんの方を窺えば……。

「―――!!!!!!」

(なんかめっちゃショック受けてる!!!!)

言葉の壁というのは本当に高いということを私は身をもって実感した。だが実感したところで鯉登さんとの言葉の壁は低くなるはずもなく。あわあわと月島さんの後ろで狼狽える私だったが、不意にぽんと、頭に軽い重みが。

「、つ、月島さん……?」

「……あー、鯉登少尉殿はだな、その、緊張すると早口の薩摩弁になってしまうのだ」

「さつま、べん?」

「鯉登少尉の出身だ」

「あ、鹿児島のことですね!知ってます!」

「そうか、偉いぞ」

なでなでと頭を撫でられて顔が緩む。私は月島さんのことがすごく好きだ。優しくて、お兄ちゃんみたいで。

「月島ァ……っ、許せんッ……うらやま、違う!破廉恥なぁッ!!!」

鯉登さんは何か言っていたけど月島さんは慣れているのか特に言及することも無く、「鶴見中尉のところに行ってくると良い」と私の背中を押したので、私もそれに抗うことなく頷いて部屋を後にした。

背後でこの世のものとは思えない叫び声が聞こえたので振り返るのは止めておいた。……そういえば、鯉登さんが月島さんに対して話しかけている時は私も鯉登さんが何を言っているか分かったのは何故なのだろう?

ちなみに鶴見さんの用事は一緒にお団子食べようというものだった。甘くて美味しかった。

コメント