真面目に恋をする男

街を歩いていた月島はふと、少し先の甘味屋の前に自身が付き従っている士官がいるのを見つけた。普通ならば特に嫌いな人間でもない限り声をかけるのかも知れないが、月島は今にも来た道を引き返したい気分で一杯だった。なぜなら店の前に立つ彼、鯉登の顔が異様に厳しいからだ。垂れ流す雰囲気も厳しいせいで店の者はおろか周囲の客まで引いている。……いい営業妨害である。

(……引き返そう)

このまま接近して声をかければまた面倒なことに巻き込まれるかも知れぬと、秒の間に思考を巡らせた月島はくるり、と方向転換……、したのだが考え直してもう一度くるり。ここで放置して第七師団に関する悪評が出ても堪らぬと考えたのだ。ため息を吐きながら鯉登に近寄る。苦労人ここにありだ。

「鯉登少尉、悩むにしてももう少しマシな顔を。店の営業を妨害しています」

「っ!なんだ、月島軍曹か……」

なんだとはなんだと僅かに顔を顰めた月島だったが、鯉登の視線の先に並ぶ品々を見て肩を竦める。甘味屋なのだから当然なのだが並ぶのは和菓子に和菓子に和菓子、そして僅かに洋菓子とまあ大体誰に贈るのか想像の付く品揃えだ。

「鶴見中尉は和菓子がお好きですからねえ」

だからあんな鬼の形相で選んでいたのかと合点のいった月島は付き合ってられんと早々に退散しようとした時だった。鯉登が実に純粋な、不思議そうな顔で月島を見たのだ。

「なぜ、そこで鶴見中尉が出てくるのだ?」

「はあ?鶴見中尉への贈り物を選んでいるのでは?」

「はあ?違うぞ。こ、これは、その、私の、い、許嫁への贈り物であって……」

「はあ」

照れたように視線を逸らし顔を赤らめる鯉登に月島も気の抜けた返事しか出来ない。許嫁。まあ、鯉登くらいの家であったらその子女に許嫁がいてもおかしくはないとは思っていたが、まさかこの男にも。何となく意外で月島は素直にふむ、と頷いた。

「許嫁の方は甘味が好きなので?……まあ、大抵の女性は甘味が好きでしょうな」

それでその迷いようかと改めて鯉登に並んで甘味を物色する月島はしかし、己が好みそうな甘味を見付けたので心中に記憶しておく。一方の鯉登は月島の問いに僅かに顔を顰めてそれから不安そうにため息を吐いた。

「や、やはりそうであるか?」

「はあ?知りませんよ。貴方の許嫁なのだから貴方がご存知のことでしょう」

「う、そ、それが……」

かくかくしかじか。

「は?知らない?」

「う、うむ……」

「許嫁でしょうに会話もしないのですか?」

「それがどうにも続かんのだ……」

がくり、項垂れる鯉登に月島は首を振ってため息を吐く。だがそれと同時に微笑ましさも生まれる。あのうるさ、じゃない真っ直ぐで、ある種不器用な鯉登にもそのような相手がいると知って。

「ちなみに今まで何か贈り物は?」

「あるぞ!この間花を贈った時は笑ってくれた!」

いつもの凛々しい表情とはまるで違う、年相応の感情を表出した笑みを自身に向ける鯉登に月島は正直に面食らった。色恋など無縁の青年だと思っていたがこれは中々どうして。ふむ、再び頷いてから月島は鯉登の手元を覗き込む。

「それで、鯉登少尉はどれを贈ろうとお考えなのです?」

「む?……これなど、なまえの雰囲気に似ている気がするのだが」

ほう、許嫁はなまえというのか、などと頭の隅で考えながら月島は鯉登が手に取った金平糖をしげしげと眺める。砂糖で作られた色取り取りの小さな金平糖は男の月島から見ても素直に可愛らしいと思えるもので、鯉登がいかになまえとやらに「べた惚れ」かを月島に教えた。

「へえ、良いのではないですか」

「うむ、だがこちらも良いのではないかと……」

鯉登が指差したのは店の奥の棚に陳列されている所謂生菓子というやつだった。繊細に模られた花や動物の生菓子は見る者の目をも楽しませる。

「ほう、良いのではないですか。悩むのならばいっそ両方贈ってしまうとか」

「うむ……、だがなまえは一度に沢山贈っても一つしか受け取ってくれないのだ……」

不服そうに拗ねたような顔をする鯉登に月島は微笑みを噛み殺すのに必死だった。士官といえどもまだ若者、なんと初々しく青いのかと。

「鯉登少尉が贈りたいと思うものをお贈りすれば良いのでは?女というのは『気持ちが籠っていないと嫌だ』とよく言いますし」

「そ、そうか……。では今日はこれにする。実はこれを見たからここに足を止めたのだ」

鯉登が指差したそれに月島は今度こそ口端を持ち上げて頷いた。

***

玄関でおとないの挨拶をすれば下働きの女中が出てきてすぐに対応してくれる。もう何度も通っているのだからいい加減慣れたもののはずなのだが鯉登はどうにも緊張してしまって知らずに湿り気を帯びた手のひらをさり気なく服で拭った。

彼がなまえと出会ったのは士官学校に入る少し前であった。お互いに幼少の頃から許嫁として約された身ではあったけれどなまえは身体が弱く十五まで生きられぬであろうと医者から言われていたのだ。その呪縛を背負ったなまえが十五を超え、余裕をもって十六まで、鯉登と彼女は娶わされるのを避けられていた。それでも両家の「どうしても互いの子を」というたっての希望で鯉登となまえは娶わせられた。

当初、鯉登自身は己が所帯を持つことに何らの感慨をも持ってはいなかった。男子たるものいつかは妻を持たねばならぬ。況してや自分は軍人の家の子であるのだから妻を娶り跡継ぎを儲けることは当然の義務だと。そうであるから身体の弱い女など、とすら思っていた。しかし、その思いは粉々に砕け散った訳であるが。

初めてなまえを目の当たりにした鯉登は、本当に比喩でもなんでもなく己の身体に殴られたような衝撃が走るのを感じたのだ。全力疾走をした時のように高鳴る心臓に熱くなる身体。汗ばむ掌を何度服の裾で拭ったことか。

俯きがちに座して、時折白い顔をこちらに向けてまた俯く。射干玉の髪を格調高く結い上げて、折り目正しく座っている彼女の声は高過ぎず低過ぎず正しく「鈴を転がしたような」と形容するのがぴったりであった。病がちであったせいであろうか、日に焼けていない白い肌は見ているだけで柔らかそうで思わず生唾を呑み込んだ己を鯉登は叱咤した。

それほどまでになまえは魅力的であった。当時の鯉登はまだ、その感情を形容する言葉を持ち合わせてはいなかったけれど。

部屋に通されてそわそわとなまえを待つ。この時間が鯉登には最高に緊張する時間だった。何を話そう、どうやって贈り物を渡そう。それ以前になまえの体調は?忙しかっただろうか?考え始めればキリがない数々の問いを何とか飲み込みながら鯉登は叫び出したいのを堪えながら只管に座す。

幾許もすれば障子の向こう側に影が見えて丁寧な動作と共にそれが引かれる。そうすれば向こうに見えるのは、いつものように美しく微笑むなまえの姿なのだ。

「お待たせをいたしました、音之進様」

鯉登の好きな澄んだ声が紡ぐ己の名前に感じたぞくりとしたものを飲み込んで鯉登は頷く。まだ喉の準備が整っていなかった。

「いつもお国のためにご苦労様でございます」

丁寧に膝を折って鯉登の向かいに座したなまえのいつもの挨拶に喉奥から何とか出した声で返答しつつ鯉登はもう一度だけ掌を拭う。それからなまえに気付かれないように深く息を吸う。

「きょ、今日は良い天気だな」

「……?そうでしょうか、お日様はお顔をお隠しになっておりますが」

不思議そうに首を傾げるなまえ。窓の外は曇っている。それも今にも泣きだしそうな雲を抱えて。ぐ、と怯んだ鯉登だったがここで負けてしまっては意味が無い。必死に次の話題を探す。

「その、身体は大丈夫か」

「ええ、本当にご心配をおかけしてしまって。もう、大分調子は良いのですよ」

少し前に体調を崩して鯉登を盛大に心配させたなまえだったが、そんな素振りも見せずくすくすと笑う。そんな彼女に鯉登もほう、と息を吐く。和やかな雰囲気が流れたかのように見えた。しかし。

「…………」

「…………」

それきりだった。俯きがちに静かに座っているなまえと必死に話題を探す鯉登がいるだけだ。その時鯉登は思い出す。折角の贈り物!ここで使わずしていつ使うのだ!

「そ、そのだな……、今日はなまえに渡すものがあって」

「まあ、またでございますか?なんだか申し訳なくって、いただけません……」

「い、良いのだ!私がしたくてしていることだっ」

恐縮してしまうなまえに慌てて膝立ちになる鯉登に目を丸くするなまえはしかし、可笑しそうに声をあげて笑う。呆気に取られる鯉登に申し訳なさそうに眉を寄せてそれでも笑いを殺しきれないなまえは眦に浮かぶ涙を拭いながら僅かに健康的な明るさを持った笑顔で鯉登に微笑みかける。

「音之進様はいつもわたくしに外のことを沢山教えてくださるから嬉しくて……」

その顔についなまえに触れてしまいたくなって手を伸ばす鯉登を不思議そうに眺めるなまえにばつが悪いものを感じながら手を引っ込めた鯉登は代わりに月島と選んだ金平糖を取り出す。

「まあ、金平糖」

「……なまえに似ていると思ったのだ」

「わたくしに?」

「……小さくて、色取り取りで、……か、可愛らしい」

「……?今、何と?」

小さすぎる声が聞こえなかったのか、小首を傾げるなまえに慌てて首を振る鯉登はぐ、と手を伸ばして金平糖の包みをなまえに押し付けるようにして渡す。それを両手で受け取った彼女はうっとりとしたような顔でほう、と息を吐くとはにかんだように鯉登に微笑みかける。

「今日はわたくしも音之進様に贈り物がありますの」

「わ、私に……!?」

「はい!」

きゅう、と微笑むなまえは立ち上がると女中を呼ぶ。間もなく訪れた女中の携えた盆には落ち着いた色合いの組み紐が乗せられていた。それを手に取ったなまえが照れたように微笑む。

「あの、まだ外出は許されていなくて、こんなものしか作れなかったのですけれど……」

静かに鯉登の傍に身を寄せたなまえが恐る恐る鯉登の手首に触れるまで、鯉登は硬直したまま動けなかった。なまえが、己に?そのことがただ、信じられなくて、嬉しくて。

そっと手渡された組み紐を大事になぞる。少し得意げな顔でなまえが微笑んだ。

「これ、わたくしとお揃いなのですよ」

「本当か!?」

「はい!いつも身に着けていてくださいね。この組み紐が、音之進様を守ってくれるようお祈りしながら組み上げましたから」

はにかむなまえの愛おしさに鯉登はつい、また手を伸ばしてしまう。そして今度は抑え切れなかった。彼女の小さな身体を引き寄せて己の腕の中に収めてしまう。

「お、音之進様……!」

困ったような声で鯉登の腕に手を添えるなまえに鯉登は湧き上がる笑みを噛み殺すことも出来ず、緩む顔をそのままにただ、なまえを抱き締めていた。

***

「あ、鯉登少尉」

「月島!見てくれ!」

「……何です、これ?……組み紐?」

「そうなのだ!なまえが私のために作ってくれたのだ!しかもお揃いだ!なんと可愛らしい奴だと思わないか!?」

「はあ、そうですか。良かったですね(棒読み)」

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