およめさんせんそう

網走監獄看守部長門倉は今現在物凄く押し切られそうだった。一体誰に?何に?

「なまえを門倉さまのお嫁さんにしてくださいな!」

この、己の年齢の半分にも満たないような年端もいかない、しかし、めちゃくちゃ押しの強い少女に。

始まりが一体何であったのか、実は門倉はよく覚えていない。確かにちょっぴり羽目を外したような気もする。いつもは絶対にしないような失態だったが、だが、足下はしっかりしていた筈だった。筈だったのだが。

目が覚めた時、門倉は己の宿舎にいた。いたのはいた。そこは流石に問題は無かった。問題があるとすれば隣に年端もいかない少女を抱いていた事、くらいだろうか。

「だから、この間から何度も言ってるが、俺はあんたとの約束なんてこれっぽっちも覚えてないし、大体なんであんたここにいるんだ?どうやって入って来た?」

「お祖父さまの名前を出せばいっぱつです!」

「うわ、俺死んだ」

そう、彼女は門倉の上司、犬童四郎助の身内なのだ。しかもよりにもよって犬童が目に入れても痛くないくらいに可愛がっている孫娘で。これだけでも死亡案件であるのにあろう事か彼女の話では門倉はなまえと一緒になるという約束をしたらしいのだ。役満だ。

「門倉さまは確かにおっしゃいました、なまえをお嫁さんにしてくださるって!」

きらきらと期待に輝く瞳に射抜かれて、なんとも気まずい。今一度記憶を顧みても何一つ思い出せない。前後不覚に陥るまで飲む事など無かったのだが、とぼやいても後の祭りだ。この事態を解決するには何の役にも立たない。

「いや、だから、悪いが俺はそんな事これっぽっちも全く何一つ覚えてなくてだな……」

「あら、では今もう一度、約束してくださいな!」

「ええ……、押しの強いお嬢様だな……」

とにかくなまえという少女と出会ってから、門倉は毎度毎度彼女と顔を合わせる度に求婚をされているという訳だ。全くどうしてこうなったんだか、と門倉は眩暈すら感じている。曲がりなりにも見目の良い女に言い寄られているというのに重なるのは心労ばかりだ。

「ねえ、門倉さま!なまえは門倉さまのお嫁さんになれるなら何でもするわ。だからどうしたらお嫁さんにしてくださるか教えてくださいな?」

「……何でも?」

「はい、何でも!」

一瞬邪な想像をしてしまった己を叱咤して、ぶる、と首を振る。ぱちぱちと目を瞬かせて首を傾げているなまえの瞳は酷く純粋で、ますます己との落差を感じてしまう。門倉の言葉を待つなまえのきらきらとした瞳は、命令を待つ忠犬のような輝きで一瞬門倉に、見えない尻尾を彼女の背後に映し出す。

(そういや、ガキの頃近所にこんな犬いたわ)

なまえが知ればへそを曲げてしまうかもしれないような事を心中で考えながら彼はじっとなまえを見つめる。きょと、と大きな瞳が不思議そうに門倉を見返す。年の頃は正確には知らないが十七くらいだろうか。まだ自分が何でも出来ると思っている年頃だろう。その若者特有の怖いもの無しのある種の無鉄砲さが門倉には少し眩し過ぎた。

「あんまりそういう事言ってると、おっさんが勘違いしちまうぞー」

「勘違い?」

「あんたが逃げられなくなっちまうって事だよ」

「なまえは逃げませんわ!もう、門倉さまったら!」

頬を膨らませて唇を尖らせるなまえの天真爛漫さに門倉は肩を竦める。いい加減に分からせてやらなければならないと思った。それが「大人」の責任だと。

「ほれ、こっち来い」

「はあい」

微塵も疑うことなく門倉の方に身を寄せるなまえに頭痛めいたものを感じながら門倉は近寄ってきたなまえの頬を人差し指でなぞる。頬を染めてそれでも嬉しそうに微笑むなまえの無防備な身体を肩を、門倉はそっと押した。

均衡を崩して倒れ込むなまえが後頭部を打たないように庇ってやりながら、それでも彼女が逃げられないように跨る。何が起こっているのか分からない、とでも言うように目を瞬かせて門倉を見上げるなまえのきらきらとした瞳に自身の見たくもない顔が映り込んでいるのを見て門倉は顔を顰めた。

「『お嫁さんになる』って事は、こういう事もしちゃったりするんだぞ」

押し倒したなまえの乱れた髪をそっとなぞってその毛先に口付ける門倉を見る彼女の頬は季節外れの紅葉葉のようにさっと色付く。ぱくぱくと金魚のように口を開閉させて絶句しているなまえに揶揄い過ぎたかと僅かに苦笑を零して門倉は彼女の上から退こうとした。したが。

「か、かまいません……。それが、門倉さまのお望みなら……」

きゅう、と目を瞑ってふるふると震える身体を隠しもしないなまえは健気な言葉を紡ぐ。胸元でぎゅ、と元々白い手を更に白くするくらいに握り締めるなまえの目許に浮かぶ雫が静かに零れ落ちた。

「……あのなあ、」

「……?」

「嫁入り前の娘が、そういう事を簡単に言うもんじゃねえ」

はあ、と自然と零れるため息を抱えて門倉はなまえの乱れた髪を整える。何もされないと分かったのか安堵したような、少し残念そうな顔で目を開けるなまえはしかし、期待したように瞳を潤ませる。

「では門倉さまがなまえをお嫁さんにしてください。……そうしたら、『そういう事』、言っても良いのでしょう?」

「俺を無職にさせる気か?あんたの祖父さんにこうやってるところがバレたら俺は良くて即クビ。悪けりゃ豚のエサだぞ」

おずおずと門倉を上目に窺うなまえの上から退いた門倉は盛大なため息を吐いて頭を抱える。別になまえの事が嫌いな訳では無い。彼女がいると、むさ苦しい宿舎も何となく華やぐ気がするし、彼女が帰った後も暫くは柔らかくて甘い香りが門倉を楽しませる。だがそれとこれとは別だ。

「で、では、なまえと共に逃げてください!」

がば、と起き上がり、そっと門倉の腕に身体を寄せるなまえのその柔らかさに思わず喉を鳴らしてしまった事を苦々しく思いながら、門倉は彼女の肩を押して距離を取る。

「だから、何でそこまでして俺みたいなおっさんと一緒になろうとするんだ?酒の席での冗談だろ?」

照れ臭さもあっただろう。つい、ぶっきら棒にそう言ってしまってからはっと顔を上げる。なまえは呆然とした顔で門倉を見ていた。

「ご、ご冗談、だったの、ですか……?」

「あ、いや、なんつーか……」

「私、あなたのこと、本当に……っ」

ぽろぽろと白い頬を透明な雫で濡らしていくなまえに一瞬手を伸ばそうとして門倉は躊躇う。想いに応えられもしない男が少しでも情けめいたものを見せるべきではないと思ったのだ。しかしなまえはその躊躇いに更に涙を零す。

「門倉さまはなまえの事、何とも思ってはくださらないのね……!」

零れる涙を必死に拭うなまえに門倉は乱暴に後頭部を掻く。ここで彼女に優しくして泣き止ませるのは簡単だ。だが、それをするのは彼女に酷だということも分かっている。前途ある彼女に自分のような男は似合わない。門倉は痛いほどにそれを理解していた。なまえの事を憎からず思っているからこそ、盲目な彼女が歯痒かった。

「~~~っ、だからなぁ!」

「っ、」

思わず大声を出した門倉にびく、となまえは身を竦ませる。その様子にばつの悪いものを感じながら、門倉はふう、と息を吐く。

「あんたにはもっとお似合いの男がいるだろうが……」

「……、っ門倉さま、じゃ、なきゃっ、いみ、ありませんっ」

ぐしぐしと目を擦りながら健気に言葉を紡ぐなまえのいじらしさに門倉は怯む。それと同時にこう、何とはない庇護欲みたいなものも湧く。何と言うか、この少女を守ってやりたいと思ってしまう。泣き顔を晴らして、その柔らかな笑顔を見たいとも。それはもう既に門倉がこの少女に絆されているという動かぬ証拠でしかないのだが。

「ったく……、あんた相当俺の人生を狂わせたいみたいだな……?分かってるのか?あんたと俺が一緒になったら俺は間違いなく無職確定で、あんたは間違いなく苦労するんだぞ」

「……門倉さまがいらっしゃれば、苦労なんて何にもありませんわ!」

「はあ……聞いちゃいねえ。いいか?俺はちゃんと忠告したんだからな?後でやっぱり嫌ってなっても知らねえからな?つーか、なんで俺がこんなに居た堪れなくなってる訳?あー、クソッ」

ぶつぶつと口の中で転がすように一人ぼやく門倉に、様子を窺うように彼を俯きがちに上目で見つめるなまえの視線に気付いた門倉は本日何度目かの大きなため息を吐くとなまえに手招きして見せる。門倉のその仕草一つで顔を明るくさせるのだから全く容易い女である。嘲る訳ではなくただ、微笑ましくて門倉は笑った。

「あ、あの、……っひゃっ!?」

近付いてきたなまえの手首を握って引っ張る。想像以上に簡単に己の腕の中に入ってきたなまえを腕に抱いて門倉ははぁ、と息を吐く。柄にも無く弾む心臓を落ち着けたかった。

「ったくよぉ、ふざけんじゃねえよ」

「か、門倉さま……?」

「俺は何事も穏便に済ませたいんだよ。……俺の人生設計丸潰れだっつーの」

あーあ、と肩を竦める門倉に目を白黒させるなまえはしかし、抱き寄せられている事に嬉しそうに門倉に身を寄せる。その仕草に緩みそうになる顔を抑えながら門倉はなまえの背に両腕を回す。

「おっさんをあんまり本気にさせなさんな。……後悔しても知らんぜ」

「……っ!門倉さま……!」

目を見開いて門倉の顔を見つめるなまえの顔の間抜けさに門倉は口端を持ち上げる。その顔に漸く言われた事を理解したのか、なまえの顔はじわじわと喜びに染まる。

「本当ですか!?本当の本当になまえを門倉さまのお嫁さんにしてくださるの!?」

「いや、まあ、それは追い追いだが……」

「それでも嬉しいです!私もっと頑張りますね!門倉さまにお嫁さんにしたいと思っていただけるような女性になれるように!」

きゅう、とはにかんだように頬を染めて微笑むなまえの可愛らしさに中てられた、とでも言おうか。心臓を鷲掴みにされたような衝撃。うっかり目を逸らしてしまった時点でこの勝負、門倉の負けなのかもしれない。

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