Psalm127:3

「花衣」後日談

愛を知らずに生まれた子どもはどのような大人になるのだろう。きっとこの世のものとも思えないような、醜くて何かが欠落した大人になるに違いない。人間が、否、動物がこの世に生み落とされて当然に得られる筈のそれを得られないのだから。それはきっと大人ですらない、人間の出来損ない。そしてそれはこの僕の末路なのだと、僕はもう知っていた。

物心ついた一番初めの記憶は父の背中だった。それは大きくて、そして冷たい背中だった。僕はその背中に必死に手を伸ばすけれど、父は僕の事なんかに気付かないように、ただその枕元に膝を突いて母を抱き起こした。父の腕の中の母は安らかな顔をして、目を閉じていた。それが死に顔だと、僕が知るのはもう少し先の事だったけれど。

僕の母は僕を生んだせいで死んでしまった。僕は周りの大人たちからそう聞かされて育った。元々それ程に身体が丈夫でなかった彼女はお医者から僕を生む事を強く反対されていたのだそうだ。それでも、きっと母は優しい人だったのだろう。或いは自己犠牲の強い人であったのだろうか、彼女は僕を十月十日その腹の中で慈しみ、僕を生み、そして長く臥せった。

小康状態と病状の悪化を繰り返しながら、母は緩やかに死へと近付いて行った。母親として、一度も僕を腕に抱く事も無く。そして僕が生まれて三年ほど経った夏が始まる少し前、父が植えたという庭の紫陽花を見つめながら、彼女は静かに息を引き取った。まるで眠るように、愛した男の腕の中で。

父は母が静かに目蓋を下ろしても涙一つ見せることは無かった。ただ母の柔らかそうな髪を梳いて、細くて折れてしまいそうなくらいの身体を掻き抱いてひたすらに呼吸をしていた。まるでその身体を放してしまったら、この世が終わってしまうのではないかと錯覚しているくらいに強く。飛び切り幼い頃の記憶の筈なのに、その光景だけは鮮明に残っていた。それは僕が唯一覚えている母の記憶であり、唯一覚えている父の人間めいた光景であったのだから。

冒頭僕は、僕が愛を知らずに生まれたと言った。しかし本当は僕は僕が愛されていたであろう事は推察していた。なぜならば愛を受けていなければ僕はこの世に存在していないだろうからだ。一つの命を代償にして生まれた僕は、何よりも究極の愛を受けてこの世に存在している。そんな事は理解していた。僕が問題にしているのは当然、成長過程における愛の事だ。……回りくどく言うのは止めよう。僕が問題としているのは「父からの愛」であった。

僕は薄々勘付いていた。父が僕を憎んでいるであろう事を。僕さえいなければ、母は今でも笑っていられたであろう事を父は知っていた。そして当然全ての元凶であるこの僕も。

僕は知っている。普段無口で何を考えているのか分からない父が「入ってはならぬ」と僕に厳命した家の最奥の部屋。そこには母がよく着ていたのだという淡い色の鮫小紋が衣紋掛けに掛けられて鎮座しているのだ。二月か三月に一度、父は長くその部屋で時を過ごす。母が亡くなってから五年以上経った今でもだ。一度だけ、その姿を盗み見た事がある。懺悔するように膝を突いて、父は母の幻影に触れるようにそれに手を伸ばして触れて、そしてたった一言言葉を零した。「なまえねえさん」と。ずっと放って置かれている筈なのに、少しも埃っぽくない部屋に転がった音は吸い込まれるように消えてしまった。

その音が余韻があまりに悲しくて、僕はそれが怖くて堪らなかった。どんな時でも顔色を変えた事の無かった父が涙を零したらどうしようと。父にこれ程までの音を吐き出させるくらいに、僕の存在は罪なのだと。父は今でも母を愛していて、だからこそ、周囲が煩く勧める後添いの話を頑なに拒んでいるのだと。僕は全て知っていたつもりで全く知らなかったのだ。父の母に対する想いの重さを。

その部屋から出てきた父を、何事も無く迎えられた自信が僕には無かった。不自然な態度を取る僕に、父はきっと気付いていたのだろうが、しかし何も言わなかった。何も言わず、僕の事を見る事も無く、ただ視線を落として僕の横を擦り抜けて行った。それは僕にとっては明確な落胆であった。きっと僕は何か言って欲しかったのだ。恨み言でも何でも良かった。ただ一言、父の僕に対する想いを明確な、言葉にして欲しかったのだ。それがあれば僕は、父の中には確かに僕がいるのだと確信する事が出来たのだから。

僕に対して何も想わない反面、父は母に対しては酷く多様に感情を表出させた。明確な言葉を聞く事は少なかったが、父は折に触れて母を想い、その面影を探しているようだった。

我が家の伝統である春先の庭いじりもその一つであった。紫陽花が好きだった母のために、父は母がまだ病床にいた頃から慣れぬ庭いじりをして紫陽花を植えていたらしい。そして母が死んでからも、父はそれを受け入れる事が出来なかったのか、彼は変わらず紫陽花を植え続けた。そして紫陽花の苗に土をかける一瞬だけ、彼は母の夫から僕の父になった。

「…………紫陽花はどうして苗の時は皆同じなのに、花が咲くと色々な色になるのでしょう」

そう父に聞いたのは単なる思い付きであった。質問の答えに興味など無かったし、本当は答えなど家の納戸に何故か置いてある大量の医学書の中に混ざっていた図鑑で読んで知っていた。ただ、僕はひたすらに父という存在を感じたかったのだ。世の父親のように僕を導き、護ってくれる父親像に目の前の母の夫を当て嵌めようとした。

「…………」

しかし父は何も答えてはくれなかった。彼はゆっくりと視線を動かして僕を見て、そして疲れたように息を吐いた。それは遠い昔の光景を思い出すようでいて、戻れない想い出の遡求を阻もうとするかのような顔だった。その時、僕は何故か気付いてしまった。きっと、遠い昔に「同じ事」があったのだと。僕の問いは父の中の母を蘇らせる禁忌であったのだと。

「あの、何でもありません……。自分で調べます……」

惨めだと思った。この世にたった一人の肉親で、たった一人僕を愛してくれる筈の人とすら僕は絆を結ぶ事が出来ない。誰からも愛されない人間の出来損ないとして生きていかなければならない事に僕は絶望した。ただ祝福が欲しかった。僕がこの世に生まれ落ちたその事を福音と呼ぶ人を。

項垂れる僕に父は何も言わずに、ただ逞しい身体で鍬を振るい、畝を作った。ぼんやりとそれを眺めていた僕を見つめ、汗を拭いながら無言で僕の傍に置かれた苗を指差す父に漸く我に帰る。まごつきながらも苗を等間隔に置く僕を見て、父は何を思ったのだろう。

「土」

「へ?」

地面に差し込んだ鍬に自重を預け、風でも睨むかのように遠くを見つめながら父はそれだけを口にした。一瞬何を言われているのか分からなくて呆ける僕に焦れったそうにしながら、父はもう一度口を開く。

「紫陽花の色は土によって変わる」

それは紛う事なく僕の問いに対する答えであった。目を丸くする僕を「手ェ止めんな」と父が窘める声もよく聞こえなかった。ただ、父の顔を見つめて、そして次第に滲んでいく視界が鬱陶しかった。

「……何泣いてんだ」

呆れたような父の声が胸に痛い。嬉しいのか悲しいのか、理由は自分にも分からなかった。どうして涙が溢れるのか、どうしてこんなにあたたかくて、悲しい気持ちになるのかが。

先ほどとは違う意味で父が長く息を吐いたのが分かる。僕と目線を合わせるようにしゃがんだ父の昏い瞳が僕の目を覗き込む。恥ずかしくて涙を拭おうとしたら制されて、父が首からかけていた手拭いでごしごしやられた。父の匂いと汗の匂いが混ざるそれは、僕にとっては次の涙の誘引剤にしかならなかった。

ぼろぼろとみっともなく涙を零す僕を見る父はいつもみたいな無表情に見えた。でも、少しだけ困ったような顔で眉を寄せていた。

「おとうさん……、ゆるしてください……」

その言葉は僕の口を自然と突いて出た。本当はずっと赦されたかった。父がこの世でたった一人大切にしている人を奪った事。僕という存在の罪を。「生まれてこなければ良かった」とそう思われているのは分かっていても、それでも僕の存在を赦して欲しかった。この人にだけは。

泣きながら赦しを請う僕に父は何を勘違いしたのか僕の頭を掴むように手を置く。

「お前何やらかした?」

大きな手の温もりが心に痛かった。違うのです、何もしていないのです。生まれてきただけなのです。そう言葉にしたくて出来なかった。僕の存在を否定されるのが怖かった。明確な想いをくれるなら何でも良いと言いながら、本当は違うのだ。僕は、本当は。

「…………似てるな」

ぐちゃぐちゃな感情がすうっと安らかになるような声だった。変わらずに僕の頭に手を乗せて、父は静かに言葉を続けた。僕が何を言いたいのか、父は知っているようだった。

「……知っています、僕はお母さん似だと皆言っています」

「違う。……俺に似てるって言ったんだ」

呆れたような声が聞こえて、僕は思わずに顔を上げた。父は感情の薄い瞳で僕を見つめていた。それでもその瞳の奥に見えるどこか懐かしそうな色が妙に僕の目に付く。

「俺も昔、赦されたかった。お前の母親に存在を肯定してもらったよ」

血は争えねえって事かな。

それだけ言って、父は僕の頭を乱暴に撫でると家へと戻って行った。「紫陽花に水やっとけよ」という言葉だけ残して。残された僕は呆気に取られてただ、目を丸くしていた。それでも、ずっと抱えていた重苦しい澱みが薄らいで、少し澄んだような気がしたのは確かだった。離れて行く父の背中をこれ程近しく感じるのもまた。

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