その日は最悪でとっても素敵な一日だった。何をやっても上手くいかないし、勤め先の若旦那にいやらしい手つきで腰を撫でられるし、おまけに帰り道に知らない男の人に襲われかけた。路地裏に引っ張り込まれて、ああ、終わった、そう思った時だった。
私とその人が出会ったのは。
私を襲うならず者をばったばったと投げ飛ばしていくその人のなんとかっこいい事か。あれだけ死にそうな、若しくは死んだ方がマシだという目に遭いながら、現金な事に私は彼に一目で恋に落ちてしまったという訳だ。
「おい、大丈夫か?」
ぼんやりとその人の事を見ている私に、彼は気遣わしげに私の前に膝を突いて(よく見れば軍服だ)私の顔をそっと覗き込む。よく日に焼けた褐色の肌は男らしく、それでも落ち着いた色を湛えた鋭い瞳が武骨さを打ち消して妖艶さを醸し出していた。
「……っ、」
私の顔とその人の顔が凄く近くなって、その事に驚いて距離を取ろうとすれば、その人は何を勘違いしたのか上着を脱ぐと私の肩にかける。
「怖い思いをさせたな……、すまない」
その人が謝る必要は無いのに、どうしてか私は謝られる。その事にぼんやりと彼の顔を目に映せば、彼は苦しそうに顔を歪めた後、徐に私を抱き上げた。
「っや……!?下ろしてください!」
予想だにしなかった展開に足をばたつかせて彼の手をから逃れようとするも、その逞しい見た目通りその人は全くと言っていい程微動だにせず、むしろ私のその抵抗を何か可愛らしい行為だとでも言うようにくすりと笑った。怜悧な印象だった顔が目許が緩んだ途端に少し可愛らしさを感じさせて、その隔たりに頬が熱くなるのを感じる。思わず目を逸らしてしまった私に彼は満足そうに頷いた。
「まずはここを離れよう」
嵐が過ぎ去ってから改めて聴くと何とも魅力的な落ち着いた声に再び心臓が音を立てて高鳴る。彼は私をまるで物語の中のお姫様のように抱き上げて、当然のように明るい大通りの方へと歩いて行く。前だけを見て歩く毅然とした横顔が凛々しくて、私はその顔から目を離せずにいた。
「……あまり見るな」
不意に聞こえた低い声は至極言い難そうな小さな声であった。はっと我に帰れば私を抱き上げる王子様然をしたその青年は僅かに目許を染めて居心地悪そうに視線をうろうろさせていた。人の顔をじろじろと見つめるなんて不躾だったと謝罪すれば彼は首を振ってそれから恥ずかしそうにまた頬を染めた。
「ち、違うのだ。お前が、…………から」
「はい?」
「いや!何でもない……!」
聞こえなかった言葉を聞き返すも頑なに口を噤む青年に私はその言葉を聞き返す事を諦めざるを得ない。そうこうしている間に私を抱き上げる彼は路地裏から表通りに至る道を歩き切ったらしい。静かな路地裏から途端に喧騒が耳を襲う。当然と言えば当然だがゆっくりと通りの地面に降ろされた私は何とかしてきっかけを作ろうと必死だった。
だってこれを逃したらきっともうこの人とは二度と会えない、そう思ったから。
「あ、あの……!」
「……髪が乱れてしまったな」
「え?」
決死の覚悟で名前を聞こうとした私の言葉を遮るようにその青年は私の髪をまじまじと見る。慌てて頭に手をやれば簪を盗られてしまったのか、せっかく纏めていた髪がばらばらだった。その事があまりに恥ずかしくて青年から顔を背ければ彼は慌てたようにまごつく。
「か、簪は落としたのか!?さっきの場所か?大切なものなのか?」
矢継ぎ早な質問に首を振って答えれば(元々安物の品だ。家に帰れば同じようなものがいくつかある)青年は少し迷ったように私から視線を逸らしてそれから私の方を見た。
「その……、嫌でなければ、で良いのだが、私について来てくれないか?」
こんな恰好でなければ願ってもない申し出であったがやはり乱れ髪で往来を歩くのは恥ずかしくて逡巡すれば、彼はそれを私の拒絶と捉えたのか盛大に顔を曇らせる。雨に打ち濡れた犬のようなその顔は私の良心を深く攻撃して、心の中の天秤をぐらつかせる。
「や、やはり見ず知らずの男について来るなど怖いか……。それはそうだ……」
目に見えて肩を落とした青年に遂に私の天秤は均衡を崩した。
「あ、あの……少し、だけなら……」
助けてもらったお礼もまだ言えていないし、と何かしら理由を付けないと何となく感じる罪悪感のような高揚感を無視する事が出来なかった。いけない事をしているのは百も承知なのに。
「そ、そうか!こっちだ!」
「……!」
ぱあっと明るくなって満面の笑みを浮かべる青年からは先ほどの怜悧な印象はかけらも感じられない。形容するならば「可愛らしい」という言葉が一番似合う。心臓が変な音を立てるように上擦って、頬が熱くなるのがすぐに分かる。ぱっと目を逸らしてしまった私に彼は不思議そうな顔をしたがゆっくりと手を差し伸べて来る。その手の意図が分からなくて訝しむ私に気付いたのか青年は綺麗に微笑んだ。
「さあお手を、姫君」
くらくらするくらいに眩しいその笑顔を直視する事など誰が出来ようか。顔も見れずにその大きな手に自分の手を重ねれば、優しく握られて手を引かれる。はしたない事をしている事は分かっているのに、どうしてだか私は物語の中のお姫様にでもなったかのような誇らしい気分で一杯だった。
「そういえば、名は何と言うのだ?」
往来を歩く道中で彼は思い出したようにそう言った。私を先導するように先を歩く彼が私の方を振り返るものだから手から伝わってくる熱に意識を持っていかれていた私はびくりと肩を揺らす。それから問われた言葉の意味を反芻して漸く「……なまえです」とだけ答える事で精一杯だった。
私の間抜けな答えにも、青年は優しく微笑んだ。彼の頬が僅かに赤らんでいるような気がするのは気のせいだろうか?青年は嬉しそうに笑って、それから「なまえか。やはり良い名前だな。……お前に良く似合っている」と落ち着いた声でそう言った。丁度太陽が私たちの行く先にあったせいかその笑顔は後光が差しているようにも見えた。自然の力さえ味方にしてしまう青年にやはり持てる者は違うなあ、と変な感心をしてしまう私に青年は少し照れたように口許を隠す。
「音、だ」
「はい?」
「その……、私の事は『音』と呼んでくれ」
恥ずかしそうに蚊の鳴くような声でそう呟いた青年、音様に私は頷く。それから小さく「音様」と呟いてみた。その音は不思議なくらいに私の舌に馴染んで心地良く響く。あまりに綺麗で素敵な響きにもう一度呟く。音様、音様。何度呼んでも美しく、それ以上に彼にぴったりな名前なんて考えられなくて、私は彼の、音様の名前を何度も呼んだ。
「っ、あ、あまり何度も呼ぶな……!」
「っ、あ、ごめんなさい!失礼な事を……!」
「違う……!嫌な訳では無くて……、その、恥ずかしい、から」
「へ?」
かあっ、と頬を赤らめて口許を覆い隠して視線を落とす音様は恥じらう姿も可愛らしい。男の人に可愛らしいなんて思うのは間違っているのかもしれないけれど、音様にはその言葉がぴったりと合っているような気がした。
「恥ずかしい……?」
こくりと頷いてから項垂れるように俯く音様は少年のように初心な顔で私をおずおずと見る。
「お前から、そんな風に名前を呼ばれるとは思わなかったから……」
言い訳をするような声になぜだかこちらまで恥ずかしくなってしまってお互いに俯いて向かい合う男女の姿はきっと往来の人から見ても滑稽だったろう。私も音様も動けずに、しかしお互い握り合った手を離す事も出来ず、ただ向かい合っていた。
「……行くか」
「は、はい……」
赤く染まった頬はきっと隠し切れなかっただろう。音様の声もまた、隠し切れない恥ずかしさが滲み出ていて私の心臓はまた一つ高く跳ねた。それからはお互い何となく会話の糸口も見付けられずに無言のまま、私は音様に連れられて歩く。しかし目的地はすぐ近くだったようだ。
「ここだ」
「ここ……?」
そこは所謂小間物屋というところだった。しかしいつも私が行くような一般的な店ではない、もっとお高そうなお店。意味が分からなくて目を白黒させる私に音様は微笑んで私の手を引いてその店に誘った。店には当然のように高価そうな櫛や紅などが置いてあって私はあまりの場違い感に委縮してしまう。
「おや、鯉登様!」
音様に気付いたのか店主が揉み手で出てくるところを見ると彼はこの店の常連らしい。店主は音様を見た後にその背後にいる私を見て合点したように頷く。
「そちらのお嬢様への贈り物ですか?」
「ああ。簪を出してくれ」
鷹揚に頷く音様はこの店の雰囲気にも物怖じする事無く、少し店の棚に目を走らせてそれからきらきらとした目で私の方を振り返った。
「なまえ、あの紅はお前の白い肌に良く映えると思うのだがどうだ?」
「へ!?ど、どうだ、と言われましても……」
「ううむ……、あ、これはどうだ?この櫛はお前の艶やかな髪に良く似合う」
話が見えない。そうしている内にも音様はああでもないこうでもないと棚の品を物色している。置いてけぼりの私であったがふと、目の端に映った棚の品に目を奪われる。
「あ、」
「お待たせいたしました」
それでもそれをじっくりと見る前に店主の声がしてそちらに意識を奪われる。音様も店の品を漁るのを止めてそちらを見た。店主が手に持った板盆には精巧な細工の簪がいくつか並べられている。美しい宝石のようなそれらは私なんかが挿したって不似合いだろう事は請け合いだった。しかし音様は私のそんな思いには気付かないのか優しい手付きで簪を手に取ると私に向かって手招きする。
「どれが良い?」
「え?」
「失くした簪の代わりだ。どれが良い?」
至極当然のようにそう言った音様は私の髪にあれこれと簪を当てる。私はというと予想外の事に混乱してしまって言葉も出なかった。だって私にこんな高そうな簪買える訳が無い。恥ずかしながら先立つものが無いと言おうとすれば音様は何もかも分かっているかのように首を振る。
「私の気持ちだ。受け取って欲しい」
「え!?だ、だって、こんな高価なもの……」
「良いんだ。私がそうしたいのだから」
優しく微笑む音様に何も言えない私に音様は少し困ったように口を開く。
「それとも……私からの品は受け取れないだろうか?」
「違います!そういう意味じゃなくて……」
慌てて首を振れば音様は安心したように微笑んで、それから再び簪を見定める作業に戻る。私も少し興味が湧いて音様の手元を覗き込む。私の興味に気付いたのか音様は一人分の空間を空けてくれる。店主も私の興味を失わせないように私の視線の先にある簪がいかに素晴らしいかを語っている。しかしどんなに言葉を重ねられるよりも先に、私の目はある簪に引き寄せられた。
「あ……これ、可愛いですね」
それは花の文様があしらわれた平打ち簪だった。淡い桃色が可愛らしくてそれを控え目に指差せば音様は目を輝かせてそれを手に取り、私の髪に合わせる。
「ああ……なまえの濡れ羽色に良く似合う……」
恍惚とした表情で微笑む音様から目が離せない。結局それからも私は反対する事も出来ずに音様からその簪を受け取ってしまっていたのだった。
「本当に良いんですか……?あの、こんなに、良いもの……」
姿見を用意してくれると言う店主がその場を離れてから恐縮しっぱなしで平伏しまくりの私に音様は嬉しそうに笑う。
「良いのだ。私がなまえに贈りたかったのだから。気に入ったのなら、着けてみてくれないか?」
音様の提案に私は頷いて店主の出してくれた姿見に向き直る。いつもしているように髪を纏め上げるけれども、音様の強い視線が気になって集中出来ない。ちら、と姿見の端に映る音様を見れば、彼は一瞬たりとも見逃さんと言わんばかりに瞬きもそこそこに私の背中を見ていた。
「…………」
その視線が恥ずかしくてどうしても手が震えそうになるのを叱咤しながら私は髪を纏め上げる作業を続ける。漸く纏まった髪に簪をそっと挿せば、音様はほう、と震えるような息を吐き出して、うっとりとした目で私を見つめた。
「ああ、やはり美しい……」
「本当に良くお似合いですよ」
店主はともかくとして音様の手放しの称賛が擽ったくて赤い顔を隠そうと俯く私を許さないとでも言うように音様は私の頤を骨張った指で掬い上げる。
「……やはり、思っていた通りお前には何でも似合う。贈り甲斐があるというものだ」
「……あ、ありがとうございます」
見つめ合う距離の近さに目眩がして心臓が音を立てる。音様に聞こえてしまわないかというくらいに高鳴るそれが苦しくて、胸に手を当てれば余計に自分が緊張してしまっている事を自覚する。
そして私に口を挟ませる事無く音様は支払いを済ましてしまって、店を出た私は申し訳ない気持ちで一杯だった。何度も何度もお礼を言う私に音様は困ったように笑う。
「私がなまえに贈りたいと言ったのだ。なまえが気に病む必要なんて一つもない」
「で、でも……」
「私が助けに入るのがもう少し早ければ、お前は簪を失くさずに済んだかもしれない。その詫びだと思ってくれ」
どこまでも良い人の音様に本当に申し訳ない気持ちになってしまう。それと同時にきっかけ作りと何の気無しに彼について行った自分自身にも。私が軽々しくついて行かなければ音様にこんな風に気を遣わせる事も無かったのに。
「ごめんなさい、音様……、こんなに迷惑をかけてしまって……」
自分が情けなくなってしまって項垂れる私に音様は膝を折って私と視線を合わす。その瞳に浮かぶうっとりとした色は平打ち簪を挿す私に注がれていた。
「良いんだ、なまえ。……だがもし、なまえが少しでも申し訳ないと思っているのなら、」
一度言葉を切った音様にこくり、と頷く。私に出来る事ならば何でもするつもりだった。音様は不安げに彼を見る私の頬を大きな手でそっと撫でると艶やかに微笑む。
「また私と会ってはくれないか?その簪を挿して」
「……え?そ、それだけ、ですか?」
ぽかん、と呆気に取られる私に音様は力強く頷く。
「ああ、なまえとまた会いたい。……やっと、出会えたのだから」
「……?あの、今何て?」
丁度私たちの傍を団体の通行人が通ったせいで音様の言葉の後半部分を聞き逃してしまったのだが、聞き返しても彼は首を振って私の問いには答えてくれない。大した事では無いのかと思い、次の会話を始める迄には私の中からその疑問は消えてしまっていた。
***
それからも私と音様は機会を見つけては共に過ごす時間を作っていた。音様が天下の第七師団であった事も最近知った事だった。音様は優しくて、本当は私の方が音様の話を聞かなければいけないのだろうけど、「私の話を聞きたい」と私に話をさせてくれる。
だから私は時々調子に乗って、言わなくても良い事まで言ってしまったりするのだ。例えば仕事の愚痴とか。
「勤め先の若旦那様だけは生理的に無理ですー!」
「何だその男は……。男の風上にも置けん……!」
別に解決策を期待している訳ではないのだ。だってこれは仕方の無い事で。ただ私は音様に聞いてもらって「なまえは頑張っているぞ」の一言が欲しいだけなのだ。
「……なまえは頑張っているな」
「おとさまぁ……」
案の定優しい顔で私の頭を撫でてくれる音様に顔が緩んでしまう。音様は優しい顔で私の頭を撫でてそれから少し考えるように視線を落とす。
「なあ、なまえ……」
「はい、何ですか?」
音様の低い声音にどきりとしてしまう。それは聞いた事が無いくらいに低い声だった。音様は私の顔を覗き込むようにして見た。その瞳が深淵を映す鏡のように暗かったのは気のせいだろうか?
「お前は今の職場が耐えられないか?その若旦那とやらがいなくなれば良いと望むか?」
突拍子も無い音様の言葉に慌てて首を振る。
「まさか!今の職場は凄く良いところですよ!そりゃあ若旦那様のお戯れには辟易してますけど……、基本的には良い人ですし……」
私は今に凄く満足していますから。
そう音様に伝えれば音様は私の目をじいっと見透かすように見る。見定められているようなその色に緊張しながらも音様を見返せば、彼はさっきまでの雰囲気が嘘のようにふっ、と穏やかに笑って私を抱き寄せた。
「へっ!?お、音様!?」
「何でもない……。お前は優しい奴だと思っただけだ」
ぎゅう、と抱き寄せられて頬に柔らかな感触が落とされる。その感触が音様の唇だと気付くよりも先に額合わせになって私たちは見つめ合う。
「お、音様……、」
「約束する。私がお前を守ろう。ずっとこうしたかった、……初めてお前を見た時から」
甘い声音に心臓が苦しいくらいに高鳴っていて頬が熱を持ったように熱い。それでも音様の言葉に何とか頷く事の出来た私を誰か褒めて欲しい。
「なまえ、何でも言って欲しい。お前の事なら何だって知りたい。好きなものも嫌いなものも全て教えてくれ」
熱烈な言葉におずおずと頷けば音様は嬉しそうな無邪気な笑顔で私をもう一度強く抱きしめる。密着した身体から伝わる音様の早い心音に、緊張していたのは私だけではなかったのだと安堵した。
***
「……幸運な奴め」
解放されて少し距離を取った私たちだったが、ぽつり、背後で呟かれた音様の声に振り返って首を傾げる。今何か、音様は言わなかっただろうか?私の視線に気付いた音様はにっこりと貴公子然とした顔をする。
「ん?ああ……何でもない。なまえは知らなくて良い事だ」
うっそりと微笑む音様の言う事はきっと何だって正しい。ああなんて幸せな日々なんだろう!
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