花衣とPsalm127:3の間
一緒になって初めての冬が来た。昔は寒くて、かなしいだけだった筈の冬なのに、今はあたたかくて柔らかい。変えてくれたのは勿論なまえさんだった。俺の名を呼んで、傍にいてくれて、俺の手を引いてくれる彼女を手放す事はもう二度と出来はしないだろう。
それでも、少ないが不満はある。一緒になる前は感じなかった些細な事が、気になる時がある。それは。
「……いい加減、俺を『百之助ちゃん』と呼ぶのは止めてもらえませんか」
「はあ、」
洗濯物を干しているなまえさんの後ろで俺は未だ濡れている洗濯物を抱えたまま訴える。可愛いからとなまえさんに強請られて飼い始めた猫が洗濯籠を引っかけてばらばらにしたのはつい先日の事で代わりの籠が来るまでの代替品は当然のように俺だった。
俺の唐突な訴えになまえさんは少し不思議そうな顔で気の無い返事をする。そして何食わぬ顔で俺の腕から洗濯物を一枚抜き取るとぴん、と張って干していく。相手にされていないような気がして俺が眉を寄せれば俺の不満に気付いたのかなまえさんは振り返って首を傾げた。
「あなたは百之助ちゃんじゃない。他にどう呼んだら良いの?」
「……それは、その、例えば、百之助、とか」
思っていたよりも拗ねたような口調になってしまうのが少し悔しい。いつもいつも、俺はなまえさんの前では子どものようだ。呼ばれ方も振る舞いも、感情の統制すら上手く出来ない。
なまえさんは考えるように目を瞬かせて俺の顔を見た。いつものように微笑んでいるその顔は少しだけ口角が震えていた。笑いを誤魔化しているようだ。
「うーん?私にとってあなたはずっと百之助ちゃんだったものね……。百之助、なんて何となく恥ずかしい」
突然呼ばれた名前に心臓があらぬ方向に跳ねる。いやしかし自分から振った話の手前今更後には引けず残り僅かになった腕の中の洗濯物を抱え直しながら、なまえさんに目で訴える。今更、と言われても仕方ない話ではあるがどうしても、俺を対等に見て欲しかった。きっとなまえさんにそのつもりは無くても「百之助」と呼ばれる事でそれを証明してもらえるような気がしたのだ。
「俺を子ども扱いしているのだったら……」
「あら、子ども扱いしている男の人と一緒になったりはしないわ」
「……!」
顔に出なかっただろうか。心臓はおかしなくらいに跳ねて、手が震える。動揺は俺の矜持と洗濯物に隠れてなまえさんには見えなかっただろうけれど、それでも俺となまえさんの間に明白と存在する何かを俺に感じさせた。俺となまえさんの間にある隔たりを。
何も言わなくなった俺に、なまえさんは俺が拗ねていると勘違いでもしたのだろう。少し困ったように首を捻っていたけれど、少しして何か思い出したように、そして緊張したような硬い表情を作る。それは呼び慣れない俺の名前を呼ぶ前触れより不自然に硬い気がして俺はそれが恐ろしくて身構える。なまえさんは何かを迷うように何度か口を開閉させた後、静かに俺を見つめた。透明な光を湛えた美しい瞳が俺を捉えて離さなかった。
「でも、そうね。……お父さんを、いつまでも百之助ちゃんなんて、子どもっぽい名前では呼べないものね」
「…………、は?」
予想だにしなかった彼女の言葉に俺は息が詰まるような気がした。何を言われたのか、分からなくてただ、馬鹿みたいに息をしていた。なまえさんは少し恥ずかしそうに薄い腹に手を当てて、そして微笑んだ。俺の戸惑いに確信を与えるように。
「その、まさか、」
「……うん」
言葉が出なくて、いいや、きっとどんな言葉だって言葉にはならない。それよりもきっと、行動の方が雄弁だ。我に返った時には折角なまえさんが綺麗に洗った洗濯物は地面で砂に塗れていた。でもそんなの後で謝れば良い。今はただ彼女をこの腕に収める事の方が大事だった。
「ちょっと、百之助……ちゃん」
「百之助です」
腕の中、少し苦しそうななまえさんの背を撫でる。この身体に俺の、彼女の血を引くみどりごがいるのかと思うと恐ろしかった。俺にその資格があるのか、分からなくて。俺が奪った全てに、今また、俺の全てを奪われる気がして。
「俺は百之助です。呼んでください、俺の名を。……俺を、赦してください。あなたの伴侶である事を、あなたの子の父になる事を」
「……百之助」
「もっと……、俺が、怖くなくなるまで……」
「百之助、大丈夫。私がいる。私に百之助がいるように、百之助には私がいるわ」
ねえ、だから何も心配しなくて良い、誰が赦さなくったってあなたは確かにこの子のお父さん。
腕の中の温もりを、これ程頼もしくあたたかく、愛おしく思った事は無かった。震える手で、なまえさんの腹を撫でてもまだそこには何も感じられなくて、なまえさんの顔を見れば彼女は可笑しそうにくすくすと笑う。なぜ笑うのだと問えば彼女は可笑しさに頬を染めて目を細めた。
「だって百之助ってば凄く情けない顔してる。いつもしっかりしてるからとっても可愛い」
慈愛に満ちた彼女の顔は、俺の知らない母親のそれなのだろうか。それとも、彼女の本質だったろうか。俺は何も見ていなくて、何も知らなかった。彼女が、俺が思っていた以上に強くてあたたかくて愛しくて、美しい事を。俺の感動をきっとなまえさんは知らないだろう。腕の中で逃れるように動いて、忘れかけられていた洗濯物を指差した。
「あの、離してくれないと洗濯物が」
「ねえ、それ今言いますか?俺今凄く感動しているのに」
「感動してるの?良かった」
あっけらかんと言い放つなまえさんは俺の拘束を優しく解くと洗濯物に近付いて屈もうとする。身重の身体で!
「駄目です。あなたは座っていてください、俺がします。そうだ、寒さは身体に毒ですから、これを羽織って。さあ、家に入りましょう。あ、駄目です、転んだら危ないから椅子までは俺が運びましょう。ほら俺に掴まって」
「もう、途端に過保護ね」
くすくす笑うなまえさんも今だけは俺の自由にさせてくれるのか、彼女を抱え上げる俺の首に手を回してくれる。近付いた顔に、当然のように顔を寄せればなまえさんも応じるように目を閉じて唇を交わす事を許してくれた。その事が嬉しくて、ただ、嬉しかった。俺に人並みを与えてくれて、俺を赦してくれて、俺を受け入れてくれた事に。
コメント