薄いビニールの包装を破ろうとして、前日に爪を切ったばかりなのを思い出した。引っ掛かりが無くて、中々開けられないのを、しかし鋏をわざわざ取り出すのも面倒だと、辛うじて白い部分が残っていた小指で引っ掻く。
パツ、と乾いた音を立ててビニールが破れたのを感じて適当に包装を破ってゴミ箱に捨てた。指先に感じる乾いた安っぽい発泡スチロールの感覚に最早何も感じる所は無い。
音を立てて蓋をめくると、見慣れた黄色い縮れ麺と銀色の小袋が一つ。美味くも不味くもない、どちらかと言えば不味い粉末スープを麺の上に開け、尾形は視線を背後に遣って舌打ちをした。
目線の先の給湯ポットには給水のランプが点灯していた。
そういえば先程コーヒーを淹れた時に給水音が鳴ったのを無視したのだった。
仕方なく手に持った即席麺をキッチンカウンターに置いて、彼はポットとコンセントを繋ぐコードを外してポットの蓋を開けた。
途端にもやぁっと湧き上がる蒸気に手をかざさない様に注意しながら、尾形はシンクの蛇口を引っ張って伸ばし、ポットに水を注ぎ始めた。
最初は今日の夕飯が作れる分だけの湯を沸かせば良いかと考えていたが、思い直して最大給水量ぎりぎりまで水を注ぐ。どの道今日は在宅残業で後3杯程はコーヒーの世話になりそうだったからだ。
ポットに水を注ぎ終わってコンセントと繋げば、表示は45℃と出て、また舌打ちが溢れた。どうやら夕飯にありつくまでに後10分はかかるらしい。
仕方なく何か入ってないかと開けた冷蔵庫には調味料と冷え切ったビールしか入っていなくて速攻で閉めた。そういえば当分買い出しにも行っていない。わずかな期待も込めて冷凍庫も覗いたが大した成果は得られない。野菜室なんて尾形には何の意味があるのか分からなかった。
手持ち無沙汰になってしまって、リビングの机の上に置きっ放しだったスマートフォンを取りに戻る。僅かに期待して点灯させた待ち受け画面には、しかし期待した通知は入っていなかった。仕事用のメールアカウントにメールが1通受信された旨と、同僚からのどうでもいい内容のLINEと、後はアプリからのお知らせが2通。
分かってはいた事だった。今日は彼女は来られないのだと。急な出張で今は海外にいる彼女が自分に連絡などするのは難しいだろうし、彼女の負担になりそうな事をこちらが聞き分けも無く頼むのもどうかと思うし。
ただここ最近はもうずっと半同棲みたいな状態だった身からすると彼女の手料理でない夕飯というのはどうにも味気なく。
とりあえず仕事のメールに目を通しながら尾形は傍に置いたままだった冷えたコーヒーに口を付けて顔を顰めた。苦味を凝縮したような不味さはインスタントの味そのものだった。昔は全く気にならなかったこの味を不味いと思うようになったのも、彼女の、なまえの作った飯を食うようになってからだった。
仕事のメールに取り急ぎの受領した旨の返信をして、アプリからのお知らせは読まずに通知欄から消した。同僚からのLINEは少し迷ったが取り敢えず未読スルーする事にした。休日の夕方に送ってくる内容なんて大した事ではあるまい。
それから少しだけ親指が迷う。同僚のトークルームの一つ上。他のLINEが来ても流れないように、彼女とのトークルームを、尾形は一番上に固定していた。これは彼女にも言ってない秘密。それを静かにタップ。
開かれたトークルームには可愛らしいスタンプや絵文字が踊る。彼女からのメッセージはいつもそうだ。反対に尾形からのメッセージは素っ気ないくらいに短い。それでも会話が続くのだから相性が良いという事なのだろうか。
指が迷う。きっと遠い異国の地で疲れているだろう彼女の負担にはなりたくない。かといって何も言わずにただ彼女の帰りを待つ、というのも薄情な気がする。第一送るとして一体何を送れば良いのだ。
考えてみればLINEのやり取りは大抵彼女から始まっていた事に、尾形は今更気付いた。
取り敢えず軽いジャブ程度に、と、『生きてるか』と打って送信ボタンを押す。1秒も経たずにトークルームに新しく出来た吹き出しに、便利になったものだと年寄り染みた考えが浮かんで消えた。
不意にキッチンのポットが電子音を奏で始める。どうやら湯が沸いたようだ。スマートフォンをダイニングテーブルに伏せて置き、尾形は夕飯の調理の続きを始める。
給湯ボタンを押してカップに湯を注げば、醤油と油の香りがした。腹の虫は正直に鳴ったが食欲は余りそそられなかった。
時計を確認してから割り箸の袋を開ける。左手にカップ麺、右手に割り箸を持ってダイニングテーブルにつく。行儀が悪いとは知りながらも、右手の割り箸は口で咥えて割った。
3分待つつもりだったけれど、結局面倒になって2分で蓋を開ける。熱い湯気を浴びながら啜った麺はやはり味が濃くて化学的な味しかしなかった。
10分もせずに食べ終わった頃、スマートフォンが唐突に震え始めて画面を表に返せば、それは彼女からの着信だった。
「……よう、」
嬉しい筈なのに素直になれないのは最早何かの業なのではないかとすら思えてくる。それでも彼女は笑って『よう!』と返してくれた。
「生きてるか」
『大丈夫だよー。疲れたけどね』
笑いながらもその声に疲労が見え隠れするのは尾形だから気付けた事だろうか。今すぐに彼女の小さな身体を抱き締めたくなる。
「仕事は?」
『今日は終わり。明日が最後で明後日の飛行機で帰るから』
「そうか」
ここで沈黙。何か話さなければという強迫観念は無かったが、それでも何も話さないのは何となく勿体無い気がした。
「飯は食ったのか」
『へ?あ、うん。食べたよー。クライアントの人が美味しい現地料理のお店を教えてくれてさー』
男か、と聞きそうになって既の所で口を閉じた。
『百之助は?ご飯食べた?』
「食った」
『何食べたの?』
「カップ麺」
正直に答えたら『もう、』と呆れた声。
『せめて袋麺にしなよー』
「面倒臭え」
『目を離すとすぐ不摂生だね。早死にするよ!』
呆れたような彼女の言葉に自然と言葉が出た。それはもうずっと前から考えていた言葉。
「じゃあ、目ェ離すな。……一生、」
『え?何?聞こえなーい!通信環境が悪いのかな』
一世一代の告白は国を跨いだ通話では届かなかったようだ。途端に襲われる脱力感。仕切り直す気にはなれなくて、ため息を一つ。
「早く帰って来いよ。寄り道せずに真っ直ぐ。土産も要らねえ。選ぶ暇があるならフライトの時間早めろ」
『何ー?百之助ちゃん寂しいの?』
電話口でも分かるくらいにやついた声のなまえにぎゅうと感情が絞られる。早く帰って来い。そうしたら抱き締めて、あの告白の続きをして、それから料理の教えを乞おう。
彼女が帰ってきた時に、温かな料理で迎えられるよう。
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