君が永遠に笑っていたらそれで

もどかしかった。俺は正論を言っている筈なのに。それを認めようとしないあいつが。今夜もまた、長すぎる夜にあいつは一人傷付いていく。どうして、あいつなんだ。

俺の幼馴染は昔から控えめで、どこか自罰的な奴だった。その性格が災いしたのか、あいつは、なまえは今酷く厄介な男に絡まれている。

「……また、殴られたのか」

この季節には不似合いな、長袖で首許まで留められたボタンに俺は暗澹たる気持ちになる。なまえは薄く笑って、「そんな事無いよ」と言ったけれど、それが嘘である事は明らかだった。俺に出来る事と言ったら。

「……来いよ」

「でも、百之助に迷惑が」

「そんなの、良いから」

有無を言わせずなまえの手首を掴む。幼馴染の手首は細くて、力を入れて握ったら折れてしまいそうだった。誰かを殺したい程に憎むなんて初めてだった。この感情をどうしたら良いのか分からない。俺はただ見ている事しか出来なくて、なまえは俺が何も出来ないせいで傷付いていく。

誰も来ないと確信できる部屋で、なまえと二人きり。そっとその袖を捲らせる。痛々しい痣が手の形にくっきりとついていて、俺はやり場の無い怒りに奥歯を噛み締めた。

「あんまり、見て気分の良いものじゃないよ」

「っ、隠すな」

手加減も無しに咄嗟に握ったなまえの細腕に彼女が顔を歪める。はっとして項垂れた。俺もあいつと同じなのか。

「……悪い」

「うん、大丈夫だから……」

困ったように微笑むなまえが痛々しかった。そんな顔をさせたい訳じゃないのに。そっと取ったなまえの腕、赤や青の痣に、用意した氷嚢をゆっくりと当てる。冷たさに目を細めた彼女のこめかみに触れて、それから我に返った。何をしようとしていたのか、自分でももうよく分からなかった。

「……なあ」「ねえ」

思い切って出した言葉はなまえの言葉と被って空中に消えて行く。聞き返そうとして、彼女の携帯の着信が、鳴った。

「……あ」

脅迫でもされたかのように急いで携帯を確認した彼女の恐怖と悲しみの入り混じった表情が、あの男に対する彼女の印象を決定付けているというのに、それでも。

「……行くのか」

「うん……」

言いたい事は何一つ言葉にならず、もどかしい思いを吐き出すように、俺は彼女の携帯を奪う。通知画面に表示されていたのはあの男からの連絡だった。

なまえの事が、好きだった。なまえが俺を選ばなくても良かった。彼女が彼女の選んだ人と幸せになれるなら俺は。それなのに、どうして、どうしてあいつなんだ。お前を傷付けて良い奴なんて、誰もいない筈なのに。

「……返して」

弱々しく呟くなまえの目には明らかな恐怖があった。そしてそれを覆い隠す程の憐憫も。ああ、お前はそれ程に。

「……行くな」

「だめ、行かないと」

あれだけ弱々しかった筈のなまえの声が強くはっきりとした意思を持つ。俺に近付いて俺の手に触れて携帯を取り返そうとするなまえの身体を、俺は無理矢理抱き締めた。

「っ、百之助……!」

「……行くな。……行くなよ」

俺の傍に、いろよ。声にならない叫びはもうずっと、きっとなまえと出会った時から俺が伝えたかった事。いいや、もうそれすらもどうだって良い。なまえがただ、明るい日差しの下で、笑ってくれさえすれば、それだけで良いんだ。だからどうか。

「……!」

不意に痺れを切らしたようになまえの携帯が振動する。獲物を捕らえた蛇のように執念深く振動し続けるそれに俺はいっその事全てを壊したくなる。尤もそれすらも出来ない程、俺は臆病なのだ。

「返して、百之助。行かないと」

「嫌だ、行くな。行ったらまた」

その先の言葉を言えずに俺は彼女に縋るように、その背に回した腕に力を籠める。どうか、どうか、彼女がもう二度と傷付かないように。そのためなら俺は何だって出来る気がした。

「だめ、私じゃないと、だめなの……。音之進には、私が必要なの」

なまえは俺に或いは自身に言い聞かせるように小さく言葉を発した。その言葉は頑なで。肩を落とした俺の手から携帯を奪ったなまえは部屋を出ようとして、扉の前で立ち止まる。

「……ありがとう」

俯いて顔を見せないまま、なまえはただそれだけを呟いた。何に対する礼なのか、俺にはもう、分からない。

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