差し伸べられた手を、握る事に躊躇いが無かったと言えば嘘になる。この村を離れて果たして私は生きていけるのだろうかと不安もあった。それでも、彼に、房太郎について行きたいと思った。生まれた時から共にいる彼に。
私たちの生まれた村はあまり裕福ではなくて、流行病に罹っても満足に医者にも掛かる事の出来ない村だった。そしてある年の終わりに疱瘡が流行って皆死んだ。私の家族も房太郎の家族もだ。
そんな天災のような事があってから、私たちは歳も近くて家も近くで、その上境遇も似ていたからすぐに仲良くなった。誰も味方になってくれる人がいない村の中で、房太郎はいつも鈍い私を庇ってくれていた。
「なまえ、お前なあぼんやりしてるとすぐに死んじまうんだからな。それじゃあ俺たちの国が作れねえだろ」
ぼんやりしてるとすぐ死んじまう、それは房太郎が私に忠告するお決まりの台詞だった。私はそれに何て返していたのか、今となってはどうしてか思い出せないのだ。
「ん……」
一緒に寝ていた布団が一瞬冷たくなる。房太郎が身体を起こしたせいだった。私は彼の事が好きだった。大好きだった。でも、だからこそ、今の彼の事をどうして良いのか分からずにいる。人を殺めて日々の食い扶持を稼ぐ彼を、否、私たちを。
疱瘡に打ち勝ったと思った私たちだったけれど、村を出た後、私はすぐに体調を崩した。房太郎とはその頃にはもう、男女の仲であったからもしかしたらとは思ったけれど、結果は違った。
私は結核だった。
房太郎は俺が頑張るからお前は寝てて良いんだと言ってくれたけど、学も何もない私たちが稼げる仕事なんてたかが知れていて。その内に房太郎は人を殺めて金を稼ぐようになった。そして同じ頃、私は足腰が立たなくなって本当に寝付いてしまった。
「房太郎……」
「……起きたのか、なまえ。まだ寝てて良いんだぜ」
夜の帳にしめやかに声が溢れて消える。房太郎の声は低くて落ち着いていて、ずっと聞いていたかった。
「でも、房太郎を、見送りたい……」
「身体に障るだろ。良いから寝てろよ」
「でも……」
ごねる私の額をそっと撫でた房太郎は薄く笑った。困ったように眉を下げて、それは見様によっては泣いている様にも見えた。
「なまえは俺の王国の女王になるんだ。女王が病気だと家族も悲しいだろ?」
「うん……」
「だからな、ちゃんと寝てろ。帰ったら、美味い物をたらふく食わせてやるから」
「房太郎……」
それは人を殺めたお金で?とは聞けなかった。私さえいなければ、房太郎はこんな事をしなくても生きていけたのに。私は本当は知っていた。初めて人を殺した日の夜、房太郎が魘されていた事を。本当は彼だって真っ当に生きる道があった筈なのに、それを私がふいにしてしまった。
今ではもう、房太郎は人を殺すのに罪悪感なんて露程も感じないだろう。それだけ私は房太郎の重荷になっている。
「房太郎……、あのね」
「どうした、なまえ」
私の小さな声は起き上がっている房太郎の所まで届かなかったらしく、さり気無く房太郎は私の隣に身体を横たえた。彼の髪から香る優しい匂いに安心した。
「あのね、……あの、ね……」
言いたい事があった筈なのに、何から言葉にして良いか分からなくなって言い淀む私に、房太郎は優しく唇を交わしてくれる。
「そんな事、しなくて良いんだよ……」
いつからか房太郎と唇を交わすのが怖くなった。否、共に在ることさえ。私の病魔が房太郎を取り殺してしまうのが怖かった。だから本当は房太郎を遠ざけなければいけない筈なのに、私は彼を拒めないでいた。彼がいなくて、生きて行ける程私は図太くはなかった。
「王が女王にご機嫌伺いするのは当然だろ?それに俺は疱瘡も跳ね返したんだから大丈夫だ」
得意げに笑う房太郎の無邪気な笑顔はまだ何も知らないあの頃のままだった。そっと彼の頬をなぞる。でも、自分でも分かるくらいに細くなってしまった腕を持ち上げるのは苦しくてすぐにまたその手は布団へと音も無く落ちた。
「なまえ、大丈夫だからな。俺がなまえに楽させてやるから」
落ちた手を取って、祈るように私のその手を両手で強く握る房太郎に私はちゃんと笑って頷く事が出来ただろうか。
いつか自分の国を作ると言った彼の隣に、未来の私は立てているのだろうか。
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