迦陵頻伽の断末魔

初めてその声を聞いた時、俺は俺の耳が壊れたのかと思った。惚けた俺に彼女は阿るように俺の手に指を這わせ、「どうなさったの」と甘えるように口にした。

それすら、俺の芯を熱くさせるとも知らず。

迦陵頻伽

夜に生きる彼女は周囲からそう呼ばれていた。誰もその名を知らず、たとえ聞いたとしてもそれを与えられる者はいなかったからだ。彼女は名無しの存在だった。そんな彼女に、いつしか人は極楽の鳥の名を与えた。美しい鳴き声を持つ極楽鳥、彼女にとってその名はぴったりだと、俺は思っていた。誰にも言うつもりは無かったが。

見目麗しく、品性も良かった迦陵頻伽はその名が示すように、歌の才は天賦の物であった。どれ程気難しい大尽であったとしても彼女の声を聞き、歌を聴けばたちまち心を許してしまう。

当然の如く誰もが彼女を欲しがり、その止まり木とならんと欲した。しかしどんな男がどれ程に目の眩むような条件を提示したとしても、彼女は決して靡かなかった。

「皆わたくしのことを、買い被りすぎているのです」

俺にしな垂れかかる迦陵頻伽のその声は、俺に得も言われぬ陶酔を及ぼした。柔らかな肢体から香る甘やかな香りと耳朶を打つ鳴き声を一度味わえば、成程世の男たちは一晩にして彼女の虜になるのだろうと、想像は簡単に出来た。斯く言う俺も。

その声を一つ聞いたその時から、俺は彼女が欲しくて堪らなかった。彼女に見えるために生きて来たのではないかと、束の間の止まり木たちは宣った。傍から見れば阿呆としか言い様の無い思考停止を俺は嘲笑っていた筈だったのに。いざ俺がその立場に身を落とせば、俺は俺自身を嘲笑わなければならなくなった。

ああ、あのうつくしいこえをえいえんにおれのものにしたいなあ。

高嶺の花であった彼女には太客が大勢いて、何も無い俺が彼女の羽休めになるには随分と骨を折る必要があった。彼女に会えない夜、幾度彼女を夢に見ただろう。耐えられなかった。あの声が俺の知らないどこかで零されている事が。彼女が俺の物ではないという事は百も承知で(寧ろ俺が彼女の物であった)俺はいつしか、極楽鳥の羽を手折る事ばかり考えるようになっていた。

しかしそう思うことの何が悪だというのだろう。人間というのは美しいもの、綺麗なもの、特別なもの、それらが自分だけのものであれと常に願っている種族じゃあないか。

思い立ってからは早かった。俺は迦陵頻伽に今生最後の文を送る。精一杯憐れみを乞うような筆致で、「逢えなければ死ぬ」だと?

──笑 わ せ る

「優しい」彼女は思惑通り、俺との座敷を持ってくれた。嗚呼可哀想だ。俺のような男に捉えられるお前は可哀想だ。美しく微笑みながら俺の頬に細い指を掛ける手弱女は俺が憔悴しているとでも思っているのだろう。何事か俺に声を掛けた。俺にはもう、その言葉を解すことは出来ない。俺は獣になるのだから。

「あなたはいつか俺に言った。『皆、あなたを買い被っている』と」

「……そうでしたかしら」

「ねえ、試してみませんか?それが本当かどうか」

「……?旦那さま、何を、っ!?」

どさ、と野暮ったい音がしたのはご愛敬だろう。息堰切って彼女を押し倒してしまったせいで彼女は強か背中を強打したらしく束の間魚のように口を開閉させた。俺はそんな彼女に馬乗りになってただ、見ていた。迦陵頻伽の最期の姿を。

「……っ何を、誰かっ、ぁ」

「ねえ、試してみましょうよ。あなたがその『声』無くとも迦陵頻伽でいられるのか」

「い、や……、やめて……っ」

俺の顔はきっと笑みの形に歪んでいただろう。彼女の細い首、男には無い平らなそこから、喉笛を親指でそっとなぞる。この頃には彼女も俺に何をされようとしているのかが分かったらしく、迦陵頻伽が笑わせるほどに抵抗をしていた。軍人の俺に効く筈も無いが。

「いや、お願い、何でも、するから……っ」

恥も外聞も無く泣きじゃくりながら、俺の手に爪を立てる女は美しかった。彼女の事を褒めそやす他の男たちはきっとこんな美しい姿、見た事が無かっただろう。思案するように俺は一度彼女の喉笛から手を外す。ほっとしたように顔色を明るくする。

「何でも、ねえ……」

「ええ、何でもするわ……っ。だから、」

「じゃあさ、……甘んじて受け入れろよ」

「え……?」

抵抗をしそうな両手は左手で封じた。たとえ片手だろうと俺はその細い首の一点を壊してしまうことくらい容易に出来ると信じていた。暴れる彼女の耳元で囁く。

「何でもするって、言っただろ?」

「いや、やめて……、いやあああああああっ」

ぐちゃ、と何かが潰れる感触がして、彼女の絹を割いたような悲鳴は濁ったような音になる。痛みと苦しさ、それから絶望でぼろぼろと涙を流す彼女のなんと美しいことか。

嗚呼、全てが美しい。それは永遠に、俺だけのものになったよ。

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