なまえがとても「ご機嫌」な事に結城が気付いたのに、特に理由は必要無かった。何故ならこの娘ときたら、普段の冷静さからは想像出来ない程に、私的な部分が緩い。つまり直ぐに表情に出る。だから結城が私邸に帰って来た時、酷くにこやかな表情で迎えられた瞬間に理解した。
何か良い事があったのだな、と。
「お帰りなさい!……うふふ~」
「……顔が緩んでいるが、何かあったのか」
一応同居人であり、関係としては心を開け渡している仲であるため一回は追及しようと声を掛ける。なまえもなまえで聞いて欲しそうな顔をしている気がしたから。それなのに。
「んふふ、秘密です!」
とても愛らしい笑顔で情報を秘匿された。こうなるとなまえはもう口を開く事は無いだろう。経験上それを知っている結城は片方の眉を少し上げるだけに留める。脱いだ上着と帽子をなまえに預けて通り過ぎようとしたら、弱い力で引き留められた。振り返る。犯人は一人しかいない。
「何だ」
「…………聞いてくださらないのですか?」
「何を」
「私がこんなにご機嫌な理由を!」
はあ、今日は面倒な絡み方だった、と結城は眉を僅かに寄せた。なまえは時々面倒になる。勿論なまえのそれは分を弁えた面倒さであるから、ともすればそれはそれで可愛らしく見えてしまう事がある。惚れた欲目というやつだとしたら自分も大概腑抜けた物だと結城は内心で肩を竦めた。
「知らん。話したいなら話せ」
「聞いてくださるのですか!」
ぱあ、と色が付くようになまえの顔が明るくなる。その様子を見ると何だか自分がなまえをいつも放っているような気分になってしまう。いつだって出来得る限り、なまえには時間を割いているつもりなのに。何だかなまえのその言い方では、自分が普段から彼女の話を聞いていないように聞こえるではないか。
私室に歩を向ける結城の手を取ったまま、なまえがその横で声高く燥ぐ。その内容はとても他愛も無い事だ。最近高値だった品物が安く買えたとか、いつも同じ場所にいる黒猫に懐かれて擦り寄られたとか、出先で偶々知り合った素敵な男性に褒められた、
「は?」
「あんなに情熱的に褒められてしまうとお世辞と分かっていても照れてしまいます……!」
白い頬を赤く染めて照れるなまえに面白くないのは結城の方だ。当然だ。何が楽しくて惚れた女が他所の男に声を掛けられて嬉しかったなどという話を聞かねばならんのだ。少し苛つくが、まだ許容範囲だ。なまえにその気が無いのが明白だったからだ。
私室に入る結城になまえもついて共に入室する。外出着から着替えるのを手伝うためだ。義手では何かと難しい、と彼女と想いを通じ合わせた結城が初めて彼女を頼ったのがこの着替えだ。
上着を脱ぎ、なまえと向かい合う。なまえが酷く真剣な表情で己の首許を見ているのが少しむず痒い気がした。細い指がネクタイに添わされる。シュル、と光沢のある音がして、首周りが少しだけ緩んだ。そのまま滑らかな動きでボタンが外されて行くのだが、なまえが顔を歪めた。
「何だ」
「結城さん、背が高いから背伸びが辛いです。屈んで」
「貴様が台にでも乗れば良いだろう」
軽口を叩きながらも律儀に結城が膝を屈めるのを分かっているから、なまえは柔らかく微笑んで殊更に身を寄せながらボタンを外す。それ程までに身を寄せたら逆に作業しづらいだろうに。それなのに、自分は彼女の腰を抱いて引き寄せている。しかし。
「あの、やり辛い……。離れてください」
怪訝な顔でさも当然のように拒絶される。この女、本当に腹立たしいな……、今更ながらに結城は思った。ただ、この天衣無縫に己が弱いのもまた事実な訳で。大人しく彼女の腰に回した手を離す。
「はい、出来た。脱いでください。洗濯で~す」
「……貴様に恥じらいを求める方が間違っているようだな」
音を立てるようにシャツを剥がされ、余分な肉の1ミリも無い身体が露わになったとしても、最早なまえが恥じらわない。面白くない事この上無い。という訳で結城は一計を案じてみる事にした。
「おい」
「はい?……っ、わ」
彼女の細い手首を掴んで引く。重心を崩すように引いたせいでなまえは実に呆気なく結城の腕の中に入り込んでくる。
「あの、風邪引きますよ。取り敢えず何か着ましょうね」
「…………」
まるで介護者のように心配そうな目で見られると苛立ちが募る。この天衣無縫さを確かに好いていいる。だがそれと同時に非常に腹立たしい。己とこの女は仮にも男女の仲であるというのに。好いている筈の男の肌に密着しているというのに。最初に出てくる言葉が、言うに事欠いて「風邪を引くから服を着ろ」?
「……分からせる必要があるか」
「はい?」
ぱちり、と目を瞬かせたなまえが小首を傾げるその仕草は愛らしいと思う。顔を近付けてその唇に吸い付く。背の低いなまえが精一杯背伸びをするのがいじらしい。舌で唇をなぞるとなまえの身体が小さく震える。結城が縋る服を纏っていないせいで、なまえはその身体に強く指を這わす事となる。
「っ、ん、ぁ……」
なまえの腰を殊更に強く引き寄せて己の腰に擦り付ける。最初は抵抗するように身を捩っていたなまえも次第に従順になっていく。唇を解放する頃にはあの無邪気な表情は見る影も無く、そこにはただの女がいるだけだった。
「っ、だ、から、ふく、きて……」
「貴様が始めたのだろう。俺を苛立たせ、煽った。計画は差し詰め……、神永か」
「……あは、正解です。でも計画は皆さん手伝ってくださいました」
目を細めて悪戯に微笑むなまえに、先程までの無邪気さは無い。狡猾で理知的なスパイの目だ。それが一瞬だけ緩やかに甘く歪む。
「あなたの嫉妬する顔が見たくて、皆さんに協力して貰ったんです。ご機嫌だったのは、あなたがどういう反応をするかずっと想像していたからですよ」
小さな身体が目一杯背伸びをして唇を奪おうとする。届かなくて顎の先に押し付けられたそれを鼻で笑う。なまえの身体を抱え上げて仮眠用のソファに寝かせると期待に満ちた目が己を見上げている。
やはり愛らしい。人間としての感情を、余分だと判じていた自分がそう思ってしまうのはきっと、惚れた欲目だと思いたい。