自分はこれほど臆病な男だったかと、鯉登は酷く懐疑的な思いであった。彼は人前で自己を卑下するより、胸を張って立つ男だった。周囲の視線を恐れず、誰が自分に何を思うかも承知の上で己の意思を貫く。少なくとも、鯉登自身はそういう人間であるつもりだった。
勿論それはある意味で演じている部分もある。彼とて常に己の意思を信じることのできるわけではないし、自らの選択を悔いる場面だってある。
それでもあえて、彼は所在なさげに振る舞うことはしなかった。それは家の体面を保つためという意味もあったし、鯉登自身、自己卑下の過ぎる人間は好みではなかったからだ。
それでも、「その人」の前でだけは、どうしても矮小な男に成り下がる。
その事実に、彼はもう抗う気力すらなかった。
「その人」が、――彼女が、あまりに美しい人だったから。
彼女は名をなまえといった。
徳川からの武家の家の娘で、父親は御一新以降は近衛の家として帝国海軍の中枢で権勢を欲しいままにしている。欧州気触れの海軍人らしく、彼女の父は軽妙洒脱で社交界の花形であった。その影響を受けたのか、娘のなまえも自由闊達で気持ちの良い性格をしている、と鯉登は思っていた。
もっとも、惚れた欲目、というのもあるのかもしれない。少なくとも、世の一般常識、というやつでは、なまえのような性格の女は敬遠されがちであった。
出会ったのは一度だけ付き合いで出席した夜会か何かであった。それが何のために誰によって主催され、自分が何故出席したのかすら思い出すことはできなかったが、ただ、騒めくホオルの向こう側で、曖昧に微笑むなまえの横顔に、彼は確かに目が離せなくなった。それだけを、覚えているのだ。
女に声を掛ける男の気が知れない、鯉登はそう思っていた。
それは彼の生まれ故郷の風潮でもあるだろうし、彼の軍人という精神がそうさせるのもあるだろうし、彼自身、己の品性というものには留意していた。そんな覚悟めいた決め事すら、そこでは曖昧だった。
己を見るなまえの眼差しのなんと澄んで美しいことか。慌ただしい頭の中で彼が覚えているのは何を話したか、ではなくただ、その眼差しの色だった。
自分のような男とは、無縁の女である。
お互いに軍人の子であるのだから存在自体は知っていたかも知れない。それでも唐突に声を掛けた鯉登に、なまえは正しく非の打ち所なく振る舞った。
女の喜ぶような話ができていたとも思えないのに、鯉登の話に鈴蘭の揺れるように笑うなまえの顔になおさら目を離せなくなるのだから始末に負えなかった。
交わした言葉はひたすらに軽妙で、かといって軽薄ではなく、美しい言葉の羅列には品性と誇りが滲んでいた。
女を「魅力的」だと思ったのは初めてだった。
鯉登は文字通り、なまえにぞっこんだった。
なまえは鯉登より二つ歳下の女学生だった。
親族の手前女学校に通い、結婚相手を探す体はしていたらしいが、彼女の父の気質や何より彼女本人の性格上、「家」に収まりそうもない娘だった。だから鯉登はいつも彼女に振り回されたし、いつだってそれが苦ではなかった。
鯉登の中では男は女の手を引くことが当然だったけれど、実際は前を走るなまえを見失わないように追い掛けるばかりであった。
彼を振り返って跳ねるように笑うなまえが美しかったから。
鯉登はなまえのことを「なまえさん」と呼んでいた。
彼女の名を呼ぶたびに、舌が柔らかく縺れるような気がした。言い慣れないわけではない。
言い慣れたくなかったのだ。
言い慣れてしまうほどにぞんざいに呼びたくなかった。
対してなまえは鯉登のことを「少尉様」と呼ぶことが多かった。
「少尉様、ご機嫌麗よう」
「少尉様、あちらに行きましょう?」
「少尉様?」
少尉様、少尉様、少尉様……
知人の前では、「音之進様」と呼ばれることもある。むしろ「音之進様」と呼ばれるたび、鯉登は目に見えて落ち着きを失ったが、なまえはいつでも澄まし顔だった。
だからこそ、鯉登は願ってしまうのだ。
自分が平然と受け止められるくらい、なまえの声で名を呼んでほしいと。
そうすればもっと格好良く、なまえの隣に立つに相応しい人間として振る舞うことができるはずなのにと。
なまえはどう思っているのだろう。眠れない夜にふと、思うことがある。
鯉登の想いに、気付いていないとは思えなかった。だが気付いていて生かさず殺さずの距離を保つような女にも思えなかった。
自室の寝台に横たわり、天井の木目を繋いで絵を描きながらも鯉登はただ、なまえのことを考えていた。
「なまえさんは、」
だからこそ、それは決壊と言えた。
――なまえさんは、私のことをどうお想いですか
およそ、軍人に、否、男児にあるまじき問いだった。少なくとも鯉登は自分の言葉をその耳で聞いた瞬間、その恥によって死にたくなった。
「前途有望な士官」
「名家の嫡男」
「社交界の快男児」
世間の風評など、取るに足らぬと思っていた。言いたい者には言わせておくし、内容の良し悪しを問わず己の評価は己の言動で判断させるべきだと。
なのに今だけは、その風評をなまえが知っていれば良いと、鯉登は恥じ入りながらもそう思っていた。
でないと、己は一生、情けない男のままなのだから。
彼女は、なまえは、鯉登の予想に反してその大きな目を純に瞬かせた。まるで意表を突かれたような顔で、鯉登を怖気付かせるには十分だった。
彼はなまえのそんな顔を見たことがなかった。
丸く溢れそうなくらいの目が、鯉登を見つめていた。その真っすぐさに腰が引けるような気持ちがして唇を柔く噛む。なまえの口が言葉を紡ぐために開かれるのをただ、見ていた。
「どう、って、どう言ってほしいのですか?」
「……そ、れは、」
「好きです、……とか、そういう?」
ひゅう、と息を呑んでしまって、そのみっともなさに視線が揺れた。なまえはいつもとは違う様子に少しだけ困惑したように眉を寄せていた。
それでも、静かに鯉登の目を見つめているなまえの目は出会った時と同じく美しかった。胸を掴まれるように、言葉が絞り出される。
「……私は、」
「…………」
「わ、私は、なまえさんの事を好いていて、それで、」
今度はなまえがひゅ、と息を呑む番だった。
大きな目が真っ直ぐに鯉登を見つめている。ただ、真っ直ぐな目で。
「それで、ただ。…………ただ、それを、知っていてほしく……」
言葉の芯が消えていく。
それに伴って視線すら落ちていくのを止められない。鯉登に許されたのはただ、その想いを吐き続けることだけだった。
「それ、だけなのです……」
俯いた視界にはなまえの爪先だけが見える。細い編み上げ靴の先が妙に守ってやりたい心地を誘い、なまえはこんなところまで愛らしいのかと鯉登は恐ろしくすら思った。
言い終えた言葉が消えても、なまえは何も言わなかった。混乱しているのか、或いは。
審判のような時間が鯉登の情緒を何より刺す。いつも煩いくらいの男の作る沈黙がなまえの口を開く音すら明白にさせた。
「…………あの、少尉、…………いいえ。……音之進様?」
気遣うようななまえの声に情けなさが募る。頬だけじゃない、耳まで熱い。全身が懐炉にでもなったようだった。編み上げ靴の先が一歩だけ、鯉登に近付いたことにゆっくりと、彼は視線を上げる。
なまえの顔は、紅葉のように真っ赤だった。
「……顔が、赤い」
「い、今言わないでくださいな。野暮ですの?」
「す、すまん……」
また視線が揺れる。
それをなまえの声が引き留めた。
白く滑らかな頬が鮮やかに染まっている。寄せられた眉が悩ましげで、彼女の凛とした雰囲気を柔らかくしていた。
男児にあるまじきことだと、鯉登は知っていた。
知っていて、その頬に手を伸ばす。
触れた指先はやはり熱かった。
「…………はしたなく、ございます……」
「…………だろうな」
「……お父様に頼んで正式にお家に抗議いたします」
「……それは困る」
「では、」
なまえの大きな目が、鯉登を見ていた。
その眼差しがしっとりと歪むのを見た。
――では、わたくしを、ちゃんと説得して
なまえの声が揺れている。
甘く、淑やかに。