役立たずの言葉

東京で、漸く腰を落ち着けた頃には祝言を挙げてからひと月以上が経っていた。くだらねえ手続きやら面倒な近所付き合いまで、なまえは本当に卒なくこなした。まるで最初から、俺の嫁になるつもりだったかのように。

家事一つとってもそうだ。掃除も洗濯も料理も何もかも、なまえはとても上手にやった。特に料理は上手だ。何を作らせても美味い。俺がうっかり「美味い」と溢したら、その顔を綻ばせて下手くそに笑うんだ。

「腕に縒りを掛けて作ったんですよ。杢太郎さんが美味しいって言ってくれて嬉しいです」

距離のある話し方に、傷付いてはいけないはずなのに心臓が揺れるように痛んだ。俺が先になまえを遠ざけたのに、今更それを悔やむのは間違ってる。

「これも食べてください。村にいた頃好きだったでしょう」

なまえは俺の曖昧な表情に気付かないまま、あれもこれもと小鉢を勧める。その横顔を見て、考えていた。

彼女はこんな風に大人しい顔で笑っていただろうかと。こんな風に物分かりの良い大人だっただろうかと。もっと素直で正直に感情を露わにする、ただの子供だったような気がするのに。

「なまえは、」

「……?なんですか?」

何を、言おうとしたのだろう。何か、決定的な事を言おうとしたのかも知れない。でもそれを言ってしまったら、何かが確実に終わってしまう気がして、俺は誤魔化すように首を振った。

「何でもない。……もう遅いし、着替えるから手伝ってくれ」

「……?はい」

なまえは不思議そうな顔をしていたが、俺が立ち上がったから、直ぐに追い掛けてくる。小さな足音が俺の後を追ってくるその様を想像すると、僅かに顔が緩んだ。

着慣れた浴衣に袖を通すと、途端に肩が軽くなる。洋装はやはり肩が凝る。深く長くため息を吐くと、なまえが苦笑した。

「お疲れ様です」

細い指が襟の部分を整えるように撫でていく。最後にそっと心臓のところを押さえられて、俺が抱えた想いを、なまえはもう知っているのではないかと怖かった。

「本当に、お疲れ様です。御国のために、大変なお仕事だわ」

輪郭の曖昧ななまえの声が、俺を責めているような気がしてならなかった。それはただの俺の妄想だと知っているはずなのに。俺の中の俺の罪悪感が、なまえの存在を借りて俺を責めているだけなのだ。なまえはただ、必死に俺と夫婦になろうとしているのに。

「もう遅いし、寝ようぜ」

「…………ええ」

なまえの肩が揺れた意味は分かっていた。俺たちはまだ、寝を共にした事が無かった。比喩じゃない。言葉通りの意味で、だ。

折悪く(或いは折良く?)俺となまえは互いに忙しくて、これまで同じ拍子で眠った事が無かった。勿論起きた時には隣になまえがいる事はあるが、それも稀な事だ。なまえは良く働く女だから、俺より後に寝て、俺より先に起きている事の方が多かった。

なまえが結っていた髪を下ろして、櫛で梳かしているのを、布団に座ってぼんやりと見ていた。昔から、綺麗な髪だと思っていたその射干玉は、一層艶やかになっている気がした。仄暗い灯りに照らされて滑らかに輝くそれに、触れてみたいと思った。叶わない願いと知っていたけれど。

「え、と、寝る準備、出来ました……。もう、ねましょう」

鏡台から立ち上がったなまえは不安そうな目をしていた。それを俺は、どのように捉えたら良いのだろう。

俺たちが普通の夫婦だったら、多分というか絶対に俺はなまえを抱いていただろう。惚れた女を目の前に、寧ろひと月も良く我慢出来た物だ。だがそれは許されない事だ。なまえが好きなのは、藤次郎であって俺ではない。それは、俺がして良い事ではないのだ。

「……そう、だな。寝ようぜ」

「はい、…………わ、」

「っおい、気を付け……ろ、」

なまえが布団の端に足を取られたのが見えた。出したばかりの布団はふかふかとしていて、思ったより大きかったようだ。なまえは目測を誤って蹴躓いた。それを俺が支えてやった。ただ、それだけの事だったはずだった。それなのに、俺となまえの距離は縮まって、まるで口付けでも出来そうなくらいの位置に、彼女の顔があった。そこまでは、鮮明に憶えていた。

「…………、ぁ」

俺は一体、何をしてしまったのだろう。我に返った時には、なまえの柔らかな唇を奪っていた。なまえもまさか俺がそんな事をするとは思っていなかったようで、緊張からか身体を硬くしている。

それはまるで、児戯にも等しい口付けだった。ただ触れて、そして終わる。唇が離れてなまえの顔が見えた時、俺は途轍も無い後悔に襲われた。

なまえは、泣いていたのだ。

「…………っ」

はらはらと、とても静かに涙を溢すなまえを愛していなければ、或いは俺はもっと上手に彼女を泣き止ませる事が出来たやも知れなかった。だが、俺は彼女を愛していたから、たった一言、絞り出すだけで精一杯だった。

「…………悪い、」

何の足しにもならない、たった一言を。

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