家に帰った俺を見て、バアチャンは何かに勘付いたのかいたく喜んだ。俺は何も言っていないのに、何度も何度もなまえねえさんに礼を言って、俺の家の庭の枇杷をなまえねえさんに持たせていた。なまえねえさんが恐縮して固辞するのにバアチャンは良いから良いからともう一つ二つなまえねえさんに枇杷を押し付けるから、なまえねえさんが帰る頃にはその腕の中には食べ切れないくらいの枇杷が抱えられていた。
「本当に良いんですか?こんなに貰ってしまって……」
「良いんだよ、百之助をこれからもお願いしますねえ」
眉を下げるなまえねえさんに俺も頷く。家の枇杷は美味いのだ。なまえねえさんに食べてもらいたかった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。私、枇杷大好きです」
きゅう、と照れたように微笑むなまえねえさんにまた心臓が握り締められたように上擦って変な気分になる。思わずまた俯いてしまったけれど、しかし勿体無くて顔を上げる。なまえねえさんが帰ってしまうから。
「じゃあ、百之助ちゃん、また明日ね」
膝を屈めて俺と視線を絡めるなまえねえさんに俺は頷いた。それから勇気を振り絞って口を開く。
「……また、明日」
微笑むなまえねえさんに今度こそ、俺の顔は変になってしまったのではないだろうか。回らない頭の中でそれだけが心配だった。
「……ご飯は美味しかったかい?」
なまえねえさんの背中が見えなくなるまで玄関先で見送った俺が玄関扉を潜る時、上り口に腰かけていたバアチャンが静かに聞いた。俺は少しばかり返答に困った。頷いてしまったら、バアチャンが悲しむのではないかと思ったのだ。俺がバアチャンの作ってくれた飯を無理矢理食っていたと証明するようで。それでもその迷いをバアチャンは肯定と捉えたようだった。ゆっくりと立ち上がって俺の頭を撫でる。
「良かったねえ百之助、本当に、良かった」
「バアチャン、」
何も言えない俺を皺だらけの乾燥した手が抱き締める。母さんの白粉の匂いでも、なまえねえさんの土の匂いでもない、でも安心する匂いがして、俺は喉が詰まってしまってただ、バアチャンが俺を撫でるに任せていた。結局その日、バアチャンは俺が眠るまで「良かったねえ」と言い続けたため、俺は照れ臭くて逃げるように布団を被り目を瞑った。頭の中でなまえねえさんの笑顔や、照り付ける日差しの鋭さ、苗籠の重み、肉刺の出来た掌の痛みを思い返していたら、いつの間にか眠っていた。
次の日の朝、朝食をとった俺はふと、納屋にあった釣り竿の存在を思い出した。それは別に何か意味があった訳では無いが、祖父の古い猟銃を納屋から引っ張り出した時に偶々目にしたものだった。いつもは鳥撃ちばかりをしている俺ではあったがその実釣りも嫌いではなかった。魚と俺との得も言われぬ駆け引きが俺にとっては面白かった。という訳で今日、俺は趣向を変えて川釣りをせんと釣り竿片手に川へ向かった。
「あら、百之助ちゃん。おはよう」
……期待していた訳では無い。それでももしかしたら、という気持ちはあった。行きがけに少し遠回りしてなまえねえさんの家の側を通ればもしかしたら、なんて。浅薄な俺の期待は予想通り叶えられた。なまえねえさんはあの柔らかな笑顔で俺を迎えてくれた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「ううん、こちらこそ枇杷をありがとう。凄く美味しかったわ。お祖母さまにもまたお礼を言わないとね」
にっこりと花のように笑うなまえねえさんの笑顔に漸く慣れたと思ったけれどやはりまだ心臓の上擦りは止められなかった。俺はそれを誤魔化すように釣り竿を握り直す。なまえねえさんは俺の釣竿を見て楽しそうにまた微笑んだ。
「魚釣りに行くのかしら?良ければ私もついて行って良い?」
「ですが、お仕事が……」
嬉しい反面突然の申し出に戸惑う俺になまえねえさんは目を細めた。
「昨日百之助ちゃんが沢山手伝ってくれたから今日はお休みなの」
軽やかな声に俺は昨日の俺の労働を褒めてやりたくなった。
川に向かうまで、俺は何を話せば良いのか全く分からなかった。それなのになまえねえさんは楽しそうに鼻歌を歌いながら時々野の花を指さして俺に教えてくれた。俺一人では見付けることも気に留めることも無かった野の花に名前が付けられ俺の世界に加わっていく。それは不思議と悪い気分ではなく、俺は出来る限りなまえねえさんの教えてくれた花の名前を復唱した。なまえねえさんがまた笑った。
「この時期は何が釣れるの?」
川に着いて俺が釣り針を投げ入れるのを後ろで見ていたなまえねえさんは興味深そうに俺に聞く。なまえねえさんに教えることが出来るのが少し誇らしくて、俺は声の調子を保つのに苦労した。
「そうですね、この時期だと山女魚でしょうか。後は鮎、とか」
「私魚はあまり詳しくないけれど、五月が旬の魚と言えば鱚よねえ」
「…………鱚は海の魚では」
「し、知ってるわ!」
恥ずかしそうに大きな声を出すなまえねえさんが隣にいなくて良かったとこの時程思ったことは無かった。なぜなら俺に顔はもう、情けないくらいに緩んで仕方なかったのだから。平常心を装って釣り竿を引く。当たりを感じ取って釣り竿を引けばそこには例の山女魚がかかっていた。
「百之助ちゃん凄い!これ、山女魚でしょう?」
俺より年上の筈のなまえねえさんは俺より子どもっぽく喜んでびちびちと跳ねる山女魚を綺羅綺羅とした目で見つめる。凄い凄いとはしゃぐなまえねえさんを見ていたら、何だか酷く、感情が揺り動かされてしまう。それが零れてしまう前に蓋をしなければと思うのに、均衡は揺らぐ。隠すように俺はもう一度川に向かった。
それから数時間、俺は魚を釣り、その度になまえねえさんははしゃいで俺を困らせた。あっという間に魚籠の中は魚でいっぱいになり、それに比例して俺たちの腹の虫は鳴き止まない。
「お腹空いたね、帰ろっか」
微笑んで踵を返すなまえねえさんに、あ、と思った時には俺はその白い手首を掴んで引き留めていた。不思議そうに首を傾げて俺を振り返るなまえねえさんに意を決して口を開く。
「折角ですし、塩焼きにして食べませんか」
最初からそのつもりで納屋から勝手に持ってきたマッチと、くすねてきた串と塩を見せればなまえねえさんはわくわくとした子どもっぽい顔で頷いた。
手早く焚き火を起こしてなまえねえさんと二人で魚に串を打つ。塩を振って火にくべれば後は待つだけである。少しすれば香ばしい匂いがしてきて俺たちの腹の虫は更に主張をする。頃合いを見計らってなまえねえさんに山女魚を手渡し、俺は鮎を手に取る。生命に感謝をしてそれを頬張った。
「…………」
「…………」
お互いに言葉も無く顔を見合わせた。なまえねえさんの表情豊かな顔が緩んでいるのがもう、分かる。俺もその理由が分かった。
「美味しいね……!」
「……はい」
綺麗な所作で、しかしながら美味そうに山女魚を食うなまえねえさんの薄らと染まった頬に、今度こそ俺は確かに緩む顔を隠さなかった。それでもきっとその顔はまだ、なまえねえさんのような笑顔と言うには程遠いのであろうが。
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