花のかんばせ

それからなまえさんは毎日、俺の家に来た。それは農作業の休憩中だったり、帰りだったり或いは行きがけだったりと時間帯は様々であったけれど兎に角、なまえさんは俺の顔を見ては微笑み、微笑んでは俺に一言二言声をかけるのだ。今日も一日頑張りましょう、とかお昼は食べたの、とか今日は何をしたの、とか決まってそれは他愛も無い言葉だったし、俺も頷くか首を振るかしかしなかった。それでもなまえさんは毎日必ず俺の許に来てはあの白い頬を薄らと赤く染めて俺に微笑んだ。

それは本当に偶然だった。昼飯を食い終わった俺はバアチャンに頼まれて少し離れた家へ遣いへ行っていた。その帰り、偶然に俺はなまえさんの家の田の側を通りかかったのだ。それは五月の盛りでどこも田植えの時期であった。五月女のように綺麗な着物も着ていないなまえさんだったけれど、俺はどうしてかすぐに彼女が分かった。細く白い足を泥濘に突っ込んで他の女たちと一緒になって苗を置いていくその姿は田に張られた水が陽光に反射するせいか綺羅綺羅と光って見えた。

「あら、百之助ちゃん。お遣い?」

いつの間にか俺は田の側に近寄っていて、ぼんやりと田の端の方で蠢くお玉杓子やヤゴを眺めて、時々、何気なく首を回すフリをしながら田植えに勤しむなまえさんを盗み見た。一度も視線は絡んでいなかった筈なのに、昼の休憩の時間になるとなまえさんは流れる汗を拭きながら真っ先に俺の方へとやって来た。

「はい」

「偉いのね。お昼はもう食べた?」

「……はい」

くすくすと何が面白いのか微笑みながら汗を拭いたなまえさんは畔に上がろうと片足をかけたが足を取られたのか体勢を崩す。思わず手を差し出してしまった。

「ありがとう、でも手が汚れているから、」

「構いません」

今更出した手を引っ込めることも出来ず無理矢理なまえさんの手を握って引っ張る。俺より背もずっと高いくせに随分軽いその身体に内心驚いた。手早く足の泥を落としたなまえさんは俺の隣に並ぶと「お茶でも飲んでいく?」と俺を見た。俺は喉など乾いてはいなかったが何となく頷いた。

道すがら俺となまえさんの間に言葉は無かった。俺は俯いてなまえさんの白い脹脛の筋肉の動きを見ていたから、なまえさんがその間に俺を見ていたのかは定かではない。連れて来られた木陰には数人の大人がいた。胃がぎゅうと縮む思いがした。母の死以来、俺はどうしてか大人という存在がどうにも嫌らしく感じられて身体が忌避反応を起こしていたのだ。だが大人たちは俺がどこの誰か分かったのか、どこか柔らかな微笑みで俺に場所を空けてくれた。

「はい、おにぎりもあるけど食べる?」

「ありがとうございます……」

差し出された握り飯は味がしなかった。それは薄味だからと言うよりも、俺の味覚がどうにかなってしまったせいだろう。もうずっと、俺は何を食っても味など感じてはいなかった。手にこびり付いた飯粒を取りながら小さく礼を言えばなまえさんは笑って頷いた。

「……何か、お手伝いしましょうか」

握り飯の礼と言っては何だが何もせずにここで帰ってしまうのもどうかと思ったのでそう聞けば、なまえさんたちは顔を見合わせて笑った。その微笑みの意味が分からず戸惑う俺の頭を揺さぶるように撫でる手がいて咄嗟にその手荒い歓迎から抜け出して振り返ればそこにはなまえさんの兄がいた。

「お前、良いところあるじゃないか!」

「ちょっと、兄さん!百之助ちゃんは兄さんと違って繊細なの!」

日に焼けた顔に満面の笑みを浮かべながら俺の背を叩くなまえさんの兄は尚も俺の頭を揺さぶろうと手を伸ばす。俺はそれを躱しながらなまえさんの背に隠れる。笑いながら俺の背に手を添えるなまえさんの白い手は温かかった。

午後、俺に与えられた仕事は苗運びであった。なまえさんたち女が田植え、男たちは苗運び。俺は苗代から移動された苗をなまえさんたちの許まで運ぶ役目を仰せ付かった。

「重いから、気を付けてね」

心配そうに膝を折り、俺と目線を合わせるなまえさんに頷き返す。子ども扱いされている事がどうにも不満であったけれど今の俺にはどうすることも出来なかった。女衆たちに引き連れられて俺の方を振り返りながら心配そうに離れて行くなまえさんに僅かに片手を上げて合図してみる。なまえさんも手を振り返してくれた。

「ほら、落とすなよ」

男衆から渡された苗は予想以上に重く目を見張る。なまえさんの兄は得意そうに笑った。

「重いだろ?それが命の重みだよ。俺たちは命を育てているんだ」

何もかもが眩しくて、俺の目は潰れそうだった。誤魔化すように抱えた苗たちをなまえさんの所へ持っていく。重くて苗籠を持つ俺の手はひりひりと痛んだ。

「力持ちねえ」

片手で数えられる以上に往復を繰り返した頃、感心したように女衆の一人が言った。なまえさんも首に巻いた手拭いで汗を拭いながら微笑む。

「あの子は良い男になるよ。なまえ!あんた嫁にしてもらいな!」

別の女が揶揄うように笑う。なまえさんもくすくすと笑って、「百之助ちゃんの方が願い下げよねえ」と俺に言葉をかける。何と返事をしていいのか分からなくて俺は尻切れに「俺は別に……、」と言うしか出来なかった。それを見て更に笑う女衆たちは俺の嫌いな大人の筈だったけれどあのどうにも嫌らしい感じはしなかった。

夕方まで俺はただ只管に苗代からなまえさんの家の田まで苗籠を運び、戻り、運びを繰り返した。日が陰り一日の終わりを告げる声が聞こえる頃には俺の手は肉刺だらけで痺れ、震えていた。

「あら、肉刺だらけ」

驚いたように俺の手を取り眉を寄せるなまえさんの硬い手も同じように肉刺を作っていたのかと想像したが、よく分からなかった。

「大丈夫です。今日はありがとうございました。帰ります」

「あら、手伝ってもらったんだからご飯を食べて行って。お腹空いたでしょう」

「いえ、バアチャン……祖母に何も言ってないし、」

躊躇う俺になまえさんはまたあの白い頬を薄らと赤く染める笑顔で俺に微笑んだ。

「さっき兄さんが連絡しに行ってくれたわ。もし、良ければだけど家で夕飯食べて行って」

柔らかな微笑みと温かな手に俺は頷くしか出来なかった。脳裏に独りで飯を食うバアチャンの姿が浮かんだのにそれ以上になまえさんの手を振り払う事がどうしても出来なかったのだ。

連れて来られたなまえさんの家で出されたのは何の変哲もない食事だった。麦飯に汁物、それから煮物。俺は憂鬱だった。また味のしない物を無理矢理食わなければいけないことが。熱の伝わって熱くなった飯椀に手をかけて箸で掬う。意を決してそれを口に押し込んだ。

「…………、」

よく噛んで食べなさいと、バアチャンに散々言われていたのに俺は一口三十回の教えも忘れて夢中でそれを貪った。母を殺して初めてだった。飯を食うことを、これ程美味いと感じたのは。

「あら、よく噛んで食べないと」

俺の食いように苦笑するなまえさんだったが、その実その声に咎める色は含まれていない。なまえさんの家族もどこか微笑ましそうに俺を見た。

「坊主、良い食いっぷりだなあ!」

「仕事をしたらお腹が空くものねえ」

「沢山食べて、大きくなるんだよ」

口々にかけられる大人の言葉はもう、俺の中に自然と滲みこんでいった。美味かった。味のしない食事を繰り返す事が俺に生涯科せられた母を殺した罰だと思っていたのに、俺は赦されてしまったのだろうか。何も、分からず俺は唯出してもらった食事全てを平らげた。

食事頂いて、一人で帰ると言ったのに、なまえさんは危ないから送って行くと言って聞かなかった。結局俺となまえさんは二人で俺の家まで歩く。静かだった。月明かりが眩しく俺たちを照らし、長く伸びる影を作った。

「今日はありがとうね。うち、男手が少ないから助かったわ」

「いえ……」

危ないからと繋がれた手を握り直して俺はちら、となまえさんの横顔を窺った。月明かりに浮かび上がるように照らされるなまえさんの横顔は、美しかった。

「……?百之助ちゃん?」

伸びきった手に気付く。いつの間にか俺は立ち止まっていて、なまえさんは先に進んでいて、俺たちの繋がれた手は解けそうになっていた。慌ててなまえさんの横に並ぶ。

「すみません、ぼうっとしていました」

「疲れたの?負ぶってあげようか?」

俺の前に屈もうとするなまえさんに勢い良く首を振る。俺は子どもであっても男であって赤子では無いのだから。そうではないのだ。俺は今、このひとに伝えたい言葉があって。

「あの、」

無理矢理口を開いたけれど、言葉は形にはならなかった。それでもなまえさんは急かす事無く俺の言葉を待っていてくれる。それが救いだった。

「今日はありがとうございました。…………、なまえ、ねえさん」

散々時間を取って考えたのに、結局言えたのはそれだけで、なまえさんは、なまえねえさんは不思議そうに俺を見ていたけれど、俺の言いたい事を理解してくれたのか微笑んで頷いてくれた。柔らかな微笑みに心臓がぎゅう、と上擦って顔がどうにかなりそうだったのを俺は俯いて誤魔化した。

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