前提の話

館に何かいつもと異なる気配がしている気がして掃除のついでとはいえ神経が尖る。私はDIO様やナマエ様とは違って気配にそこまで敏感な訳では無いが、それにしたって「その気配」は異質だった。

気配を追うように廊下を歩く。その廊下の先に、気配の主がいるという事には流石に気付いた。逃げられないように気配を消して静かに廊下を塞ぐ。そこにいたのは。

「っ、誰?」

少年だった。柔らかそうな金糸雀色の髪が無造作に伸ばされている。その瞳は宝石のような濃い赤色をしていた。ほっそりとした体躯と長い手脚は少年の奇妙な色香を際立たせていて、サイズ感が微妙に合っていない服の裾を握っている。既視感のある表情を見れば私はこの少年の事を知っているという確信を得た気がした。

「あなたは、」

「っ、あんた誰だよ……、ここは何処?……一体、何がどうなって……」

不機嫌そうな声音や唇の尖らせ方に面影があった。それは紛う事のない。

「ナマエ、様?」

「あ?……ナマエ、『様』?」

私の言葉に訝しそうに顔を顰める少年は十中八九ナマエ様だろう。だが少年の頃のナマエ様は現在と比べるとやや荒っぽい性格らしい。口調も表情も私への敵意に満ち満ちている。

「……僕を馬鹿にしてるのか?貴族でもないのに、『様』なんて呼ばれる筋合い無いぞ」

「……ですがあなたはナマエ様でしょう?」

「…………確かに、僕はナマエだけど。お前は誰なんだよ」

ナマエ様の警戒心がありありと伝わってくる。赤い瞳が遠慮無しに私を睨み付ける。このような事態になった理由は分かっている。最近DIO様の配下になったアレッシーのセト神のスタンドだ。何らかの理由でナマエ様は彼のスタンドの影響下にあるのだろう。

「私はテレンスと申します。ナマエ様の忠実なる部下にございます」

「……部下?」

少年のナマエ様には「今」の記憶が無いのだろう。私を見る目は不審そのものだ。身を守るように拳闘の姿勢を取るナマエ様を安心させるように微笑んで見せる。

「ええ。ナマエ様の兄君のDIO様にもお仕えしております」

「ディオを知っている?……よく、分からないな。僕とディオはただの貧民街の餓鬼だ。そんな奴らに『忠実なる部下』?何が目的だ?」

小さな身体を懸命に大きく見せようと胸を張るナマエ様には「今」のような余裕は見られない。私如きにも翻弄されそうになっているナマエ様が酷く、可愛らしく見えた。警戒させまいとナマエ様との距離は縮めず、膝を折って目線を合わせる。

「失礼ですが、お幾つですか?」

「いきなりなに?…………十歳、だけどさ」

警戒しつつも素直に答えてくださるナマエ様は酷く愛らしい。そしてナマエ様がジョースター邸に引き取られたのは十三、四の頃だと聞いていたからまだこのナマエ様はロンドンにいた時のナマエ様だ。

「ではロンドンにいらっしゃるのでしょう。兄君のDIO様と。御母堂は早くに亡くなられ、今は御父上と兄君とお暮らしになられている」

「なんで、それを……」

怖れるように身を一歩引くナマエ様だったが、挑むように私の目を睨み付ける。その瞳に映る色は何処か頑なだ。

「っ、僕の事を調べたのか?」

「まさか!全てナマエ様が教えてくださった事です。…………DIO様とナマエ様が、御母堂の胎の内で手違いにより二つに生まれてきた、事なども」

「…………っ!」

ざっとナマエ様の白い頬から血の気が引く。私の事を更に警戒したのかまた一歩後退りするナマエ様を落ち着かせるようにゆっくりと近付く。

「全てナマエ様が話してくださった事です。ご安心ください、私は味方です」

「…………テレンス、とか言ったな。何が目的だ?」

「目的など。ただ、この館は物騒なのであなた様を保護したいと考えています」

「物騒」という単語にぴくりと反応を示すナマエ様を怯えさせないようにゆっくりと手を差し出す。

「どうか私と一緒に来てくださいませんか。……そうだ、ホットミルクを入れましょう。蜂蜜入りで、ほんのり甘い。DIO様との思い出でしょう」

ホットミルクの話を覚えていたのは我ながら褒められたものだと思った。私の言葉を聞いたナマエ様が目に見えて表情を明るくしたからだ。

「…………本当に、僕を知っているみたいだ」

「ナマエ様は今、『不思議な力』で幼くなっていらっしゃるのです。私は成長したナマエ様にお仕えしていて、あなた様の事を沢山教えていただきました」

俄かには信じられない話だろうに、ナマエ様は「ふうん」と曖昧に返事をしたまま黙ってしまわれた。拒まれないのを良い事にナマエ様の小さな手を取り、誘導する。一旦は厨房にでも連れて行こうかと考えたが、厨房だと誰かに見つかるかも知れないと思ったので、全くやましい気持ちは欠片も無いが私に宛てがわれた私室に案内する。ナマエ様は道すがらきょろきょろと忙しなく視線を動かしていた。

「どうしてここはこんなに暗いの」

真昼間なのに燭台の灯りを頼りに廊下を歩く私たちにナマエ様は不思議そうな顔をする。少年のナマエ様はまだ、DIO様が吸血鬼になった事を知らないのだった。

「DIO様のお言い付けです。DIO様は諸般の事情により日光に当たる事が出来なくなってしまったので」

「……そうなんだ。暗くて良く見えない……」

ナマエ様の声が不安そうに揺れていて、そこで初めて気が付いた。幼い頃のナマエ様は恐らく栄養失調から来る夜盲症なのだ。私が取った手に縋るように力が込められる。不安そうなおどおどとした様子に庇護欲が掻き立てられた。

「もう少し燭台の近くに。転けないよう、お支えいたしますので」

手を引いて細い腰を抱いて引き寄せる。「今」のナマエ様とは少し違う、透明な甘い香りがした。

「……取り敢えず、私の部屋にお連れします。ここよりはずっと明るいのでご安心ください」

「……暗いのは嫌いだ。はやく」

ナマエ様の子供らしい我儘のような物言いに唇が緩む。彼が躓かないように身体を寄せてエスコートする。いつの間にかナマエ様のほっそりとした手が私の腕に掛けられていた。