暗闇の底から声が聞こえる。許さない、許さない、お前を絶対に許さない。呪われろ、呪われてしまえ、忌まわしい子よ。地を這うような低い声と女の叫び声。俺は唯只管に耳を塞いで蹲るだけであった。声は次第に大きくなって目を瞑って蹲る俺の周りを徘徊する。背中を強い力で押されて体勢を崩した俺が見たその声の主は。
俺の顔をしていた。
はっと目を覚ます。しんとした、夜の静寂が耳に痛い。ばくばくと拍動を繰り返す心臓の音が身体の奥で主張を繰り返す。奥歯を噛み締めて弾んだ息を噛み殺す。バアチャンを起こす訳にはいかない。耳を欹てれば規則正しい寝息が聞こえてきて静かに息を吐いた。
あれが夢だというのは分かっていた。もう何度も聞いている声だ。俺を呪う恐ろしい声は俺を確実に蝕み殺していく。しかし俺はそれで構わなかった。それだけのことを俺はした。俺は赦されてはいけないのだから。次第に落ち着いていく息に一度だけ静かに息を吐く。部屋中に俺の鬱積した感情が霧散していく気がした。
いつからだろう、俺が「あの夢」に追い立てられるようになったのは。俺を呪うあの低い声に母の声が混ざるようになったのは。全ては幻影で幻聴だと、心の奥底では分かっている。母は死んで、後には何も遺らなかった。その肉体も、想いでさえも。だからあの声は母の声じゃない。分かっている。あの夢も、あの声も、全て俺の内なる感情から現れていることぐらい。
俺を一番赦していないのが、俺であるということぐらい。
迫上がってくる物を呑み込むように寝返りを打った。大丈夫、俺は耐えられる。耐えなければならない。あと数年、俺が一人前になってバアチャンを楽させられるようになるまでは、俺はバアチャンの重荷になってしまうのだから。せめて、「手のかからない子ども」でいなければ。
事実俺は周囲から褒められるくらいには「手のかからない子ども」であった。夜泣きも夜尿も偏食も、我儘でさえも言ったことは無い。夜の共寝も早々に卒業してしまった俺は毎晩一人で布団に潜り込んだ。
それでも時折、寄る辺ない夜の時間が恐ろしかった。ともすれば、俺は世界から切り離されてたった独り、昏く先の見えない世界に放り出されてしまったようで。誰かに縋ってしまいたくなった。全てを投げ出して唯、俺の全てを赦して欲しかった。
そんな場所、ある訳無いというのに。
あまりに馬鹿馬鹿しくて笑みすら浮かぶ。もう一度耳を澄ませばやはりバアチャンの規則正しい静かな寝息が聞こえてきてほっとした。何も気付かれてなくて、良かった。心配をかけていなくて良かった。そして明日の朝が来たら、俺は何食わぬ顔をしていつものようにバアチャンに朝の挨拶をすれば良いのだ。それでこの夜の事は無かったことになる。それを繰り返して俺がこの夜に慣れていけば良いだけなのだ。
纏わりつくような視線から逃れるために布団を頭まで被る。今よりもっと幼い頃、俺は天井の隅が怖かった。何か人ならざるものがこちらを覗いているようで。その怖れは成長するにつれて消えて行った筈だったけれど、今また俺は天井の隅が怖い。俺が奪った全ての命が俺を呪わんと手ぐすねを引いているようで。
布団の中に潜って膝を抱えるように丸くなる。いつかバアチャンが教えてくれた。赤ん坊の頃は皆、こんな風に丸くなって母親の腹の中にいるのだと。十月十日、俺はこうして母さんの腹の中にいた。その間、母さんは何度俺の成長を喜んでくれたのだろう?全てはもう、闇の中だ。
段々と闇に目が慣れていって、布団の中が薄ぼんやりと見えてきた。でも視界は滲んでいた。それがどうしてか、分からない訳では無かったけれど俺はどうしても認めたくはなかった。今更ムシが良過ぎるだろう。俺が奪った。俺が悪い、俺のせいで。母さんは死んだのに。
もう一度、逢いたい、だなんて。
声を出さないように奥歯を噛み締める。気付かれたくないのに、気付いて欲しかった。それを望むのは間違いだと分かっているのに。ただこの頬を拭う柔らかな手を望んでいた。
―百之助ちゃん
不意に脳裏を過ぎったそのひとに首を振る。違う、あのひとは違う。あのひとは「大人」だ。狡くて、汚くて、俺を殺す「大人」だ。信頼しちゃ駄目だ、駄目なのに。どうしてだろう、あのひとに、なまえねえさんにこんなに逢いたいと思うなんて。
昨日会ったばかりなのになまえねえさんの白くて硬い手の感触が懐かしかった。あの柔らかな優しい声で明日も俺の名を呼んで欲しかった。そうすれば俺は束の間、この世界にまた受け入れられた気がするのだと気付いた。なまえねえさんは確かに俺を救ってくれているのだと。
脳裏に浮かぶ俺だけのなまえねえさんに俺は声も出さずに懺悔し、懇願した。ゆるしてください、俺を。少しで良いから。俺を、俺の生を祝福してください。俺が生まれてよかったと、思ってください。どうか、あなただけは。
「…………なまえ、ねえさん」
小さく、その名を呟いたら俺のうちに渦巻く暗闇が少しずつ消えていくような気がして俺は静かに目を瞑った。濡れていたはずの頬はいつの間にか乾燥していて、きっと明日の朝起きても俺がどういう状態だったかなんて分からないだろう。
明日の朝、俺はいつものように目覚めて何食わぬ顔でバアチャンに朝の挨拶をして飯を食えば良いんだ。それから身支度をしてなまえねえさんのところに行こう。昼まで仕事の手伝いをして、また美味い飯を食うんだ。
俺が束の間俺の罪を忘れて普通の人間になることを、母さんは赦してくれるだろうか?
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