身の程知らずと言い聞かす

目が覚めて、なまえの「音」が聞こえるのを幸福に思う。ぱたぱたと軽やかな足音、まな板と包丁の打ち合う音、下手くそな鼻歌は俺が起きていないと思っているから歌っているのだろう。俺が少しでも気配を動かせば、調子外れの旋律はいつもすぐに消えてしまうから。

わざとらしく音を立てて身体を起こし、伸びをする。なまえはまだ、俺が起きた事には気付いていないようで、楽しそうな鼻歌は聞こえたままだった。まだ頭はぼんやりしていたけれど、眠気覚ましに枕元に放っていた両切りの箱を手に掴み、這いずって寝所の戸を引く。誰かからの貰いモンだったが、この両切りの銘柄は日本語で「英雄」というらしい。俺にはまるで、相応しくないな。

深く深く煙を吸い込んで、それから起き上がる勇気を作っていく。なまえと顔を合わせるには勇気がいる。それはなまえのせいではなくて、俺が藤次郎やなまえに対して抱いている想いを正視する勇気だ。

一本吸い終わる頃になまえが俺が起きた事に気付いて寝所にやって来る足音がしたからぼんやりした頭はすぐに覚醒した。灰皿に吸い殻を潰し、咄嗟に見られる程度には身綺麗にしてしまう。女を知らない餓鬼みてえだ。

「おはようございます」

寝起きの俺にどこを見て良いのか分からないとでも言いたげな少し困った顔でなまえは俺の首許の辺りに視線を彷徨わせた。俺も何となく、曖昧な返事をしてそれから立ち上がろうとして止めた。

「着替えますよね?お手伝いします」

純真無垢な瞳が当然といった様子で俺を見るから、つい、なまえから視線を逸らしてしまった。「そういう」汚らしいものを、たとえそれが人間としては普通の機能なのだとしても、なまえには見せたくなかった。

「いいよ、別に。朝メシ作ってる途中だろ。一人で出来る」

「……?分かりました、」

何も分かってなさそうななまえは曖昧に微笑むと踵を返してまた、軽やかな足音を立てて台所にでも行ったのだろう。なんだか朝からどっと疲れてしまって、もう一度布団に倒れ込んだ。

天井の木目の点と点を繋ぐ。少しずつ感情が平静になって、それと共に身体の方も通常に戻って来る。もう五つ程、絵を描いた時に不意に故郷の夜空を思い出した。藤次郎が教えてくれた、なまえの瞳のような星空だ。だが、なまえの星空のような瞳は、あの木目では到底敵わない。綺羅綺羅と輝く光を、俺が最後に直視したのは一体いつだったろう。ゆっくりと、目を閉じた。なまえの目の光を思い出す事はまだ出来なかった。

「……ああ!やっぱり二度寝してる」

ぼんやりしている内にいつの間にか微睡んでいたようだ。気が付けばなまえが俺の顔を覗き込んでいた。

「起きてください。朝ご飯、出来ちゃいました」

はにかむような可愛い笑い方だった。俺にそれを見る権利がまだ有ったとは、知らなかった。

着替えは結局なまえが手伝ってくれた。俺の親父もそうなのだが、男っていうのは独り身の時には身の回りの事全部自分で出来るのに、嫁を貰うと途端に手伝って貰いたがるよな。あれは何なのだろう。

どうでも良い事が頭を過ぎる。なまえは美味そうに卵焼きを頬張っている。昨日隣のカミさんから新鮮な卵を貰ったとか言っていたから、きっと美味いのだろうな、と思った。だがなまえの真似をして卵焼きを口にしてみても俺には味の違いはさっぱりだった。いつも通り、柔らかくて美味い。まあ、昔から俺は何を食っても「美味い」「不味い」しか言えなかったからな。藤次郎は、違ったけれど。

「新鮮な卵はやっぱり美味しいですね」

「そうか?いつも美味いから違いが良く分からねえ」

なまえが作った物が不味い訳がないだろう、とは言えなかった。でもなまえは照れたように微笑んだ。何だか久しぶりにほっとした、気がした。昔と同じようになまえと同じ空気を吸っているような気がした。

「……杢太郎さん、最近何だか楽しそう」

不意に、なまえが俺の名を呼んだ。俺の名を呼んで、俺の目を見て微笑んだ。俺は何を言われたのか良く分からなくて、咄嗟に茶を飲んで誤魔化した。熱い茶を火傷しそうになりながら飲み下して、俺はなまえの言葉を反芻した。

なまえにそうやって名を呼ばれるのは慣れない。昔みたいにモクタロにぃちゃんと呼んでくれれば良いのに。それでも、久しぶりに名前を呼んで顔を見てくれた。それがとても、嬉しい。

「最近面白え奴を拾ったんだ」

「面白い人?」

「ちょーっと俺に似てるかな、なんてな」

なまえと普通に会話する事が出来ている。それがとても、嬉しい。なまえが俺の言葉を聞いて目を細めて微笑んでくれた。あの時のような無邪気な顔で。俺の言葉に笑って、それから言葉を返してくれた。嗚呼、とても幸せだ。

それは俺には過ぎた幸福であるべきはずなのに。