ノラ坊に言われた事をずっと考えていた。
「なまえさんをちゃんと安心させてあげてね」
頭をぐるぐる駆け巡るたった一言。安心させる?今更どうやって?思い返してみたら俺はなまえに言わなかった事も言えなかった事も山程ある。藤次郎の最期すら、俺は未だなまえにちゃんと伝えられていなかった。あの戦争から文字通り、俺たちの時は止まっているというのに一体今更何を言えば良いというのだろう。
極力のろのろと家までの道を帰る。帰りたいけれど帰りにくい。別に今まで通りになまえに接すれば良いだけの話なのに、俺の中ではなまえと向き合うという事は既に決定事項だった。
なまえを、解放してやらねばならないと思った。藤次郎の死からも、この不自由な夫婦生活からも、俺の想いからも。
「……帰ったぜ」
どれだけのろのろ歩いた所で、歩いてりゃ最後は家に着いちまう。分かってはいた事だったが気が重い事は確かだった。帰宅の声になまえが気付かなければ良いと思ったけれど、軽い足音と共になまえが廊下の向こうから顔を出した。
「お帰りなさい、杢太郎さん」
明るく微笑むなまえの顔を見て、強く思った。幸せだと。こんな風に、好いた女に出迎えられて俺は幸せだと思った。そんな資格、俺にある筈無いのに。
「なまえ、話があるんだがよ」
言葉はするりと俺の口を滑って出て行った。俺に幸せになる資格は無い。俺は幸せなんて感じてはいけない。ただ、なまえを幸せにするためには、全てを伝えないといけないと思った。藤次郎の事、俺の事、あの日、あの最期の日、藤次郎に何があって俺が何をして、藤次郎が何を言って何を思ったのか。俺は伝えないといけない。
部屋で正座して向き合って、なまえを見た。いきなりの事で困惑しているのか、緊張したように膝の上で手をぎゅう、と握りしめる彼女を意地らしいと思った。
「…………なまえに、」
沈黙に耐え切れなくて俺が口を開いた時、なまえは少しだけ肩を揺らした。どういう意味なのかは分からない。ただ、此処で別の話を始めたらもう二度と、俺はこの話題を出せなくなると思ったからそのまま続けた。
「藤次郎の最期を未だ、伝えてなかったよな」
「…………、」
藤次郎、と俺が口にした時になまえの身体が更に大袈裟な程に震えた。その反応からも分かっちまう。なまえが未だ藤次郎の事を愛している事。
「病気だった。もしかしたら、内地だったら死ななかったかも知れねえ。藤次郎は、譫言みてえにずっとお前に会いたいって、そればっかり言ってた。生きて帰って、なまえと祝言を挙げたいって、そればっかり、言ってた」
なまえの膝の上で握られた手に力が籠るのが分かる。強く、強く握り締められた手を俺が解してやれたなら、きっと物心ついた頃からずっとそう思っている。
「俺は、作戦があって、実際に藤次郎の最期を見た訳じゃねえんだ。でも、最期の最後に、藤次郎が言ったんだぜ」
取り出したそれを、なまえ見せる。紅い肌守り。なまえが藤次郎に渡した、藤次郎の形見。
「『生きて帰って、なまえを幸せにしろ』って」
なまえの大きな目から堪え切れなかった涙がぼろりと溢れた。昔から、その涙を拭うのは藤次郎の役目だった。今更、俺がそれをしても良いのだろうか。
「…………なまえの、言いたい事は分かってる。俺が軍の学校を薦めなきゃ、アイツはもしかしたら今も生きてたかも知れねえ。なまえも好きでもねえ男と一緒になる必要も無かった。全部俺のせいだ。本当に、済まないと思ってる」
なまえの顔を直視するのが怖い。なまえに拒絶されるのが怖い。俺はなまえと向き合うという事を幼い頃から避けて来た。それはひとえに恐ろしかったからだ。なまえに俺の想いを否定されるのが。だが、俺がそうやって中途半端に逃げ続けたせいで、なまえが不幸になるのはもう、見たくないと思った。
「けど、よ。俺は最低な男だから、なまえが苦しんでいる事も悲しんでいる事も全部知ってんのに、なまえと一緒になれた事を何処かで喜んでんだ」
「、っ」
なまえが唇を震わせる。彼女が小さく息を吐いたのが分かった。視線をなまえに合わせてみると彼女は困惑しきりの顔で俺を見ていた。
「なまえが好きだ。ずっと、子供の頃から。なまえが藤次郎の事を好きなのも、俺の事を憎んでるのも知ってる。でもな、それでもお前を愛してるんだ。身の程知らずに俺の手で、幸せにしてやりてえって思ってんだよ」
なまえの大きな目からまた涙が一粒、二粒零れ落ちた。その涙を拭ってやりたいと思ったら、自然と手が伸びた。良いも悪いも言われずに、なまえは俺の腕の中にいた。
「ごめんな。俺なんかより、藤次郎と一緒に幸せになりたかったよな」
そんな事、分かっているのに。俺は狡いから予防線を張って拒絶される痛みを軽減しようとしている。なまえが小さく鼻を鳴らした。
「……モクタロ、にぃちゃんは、私の事、仕方なくお嫁に貰ってくれたんだと思ってた」
不意に、小さな声でなまえがそう囁いた。子供の時分以来だった。「モクタロにぃちゃん」なんて。強く抱いても良いのか分からなくて、意気地の無い俺の腕はなまえの身体に沿えるように置いてある。
「……んな訳、あるかよ。俺は、……俺はあんな、大切な弟が死んだばっかりだっていうのに、なまえが俺の所に嫁いでくるって聞いて、確かに、よろ、こんで……っ」
嗚呼、もう、堪らなくなってなまえの身体を強く強く抱き締めた。どうしてだろう、俺はこの時、あの戦場からやっと帰って来たのだと、思った気がするのだ。
「……トウジロが戦死したって聞いた時、私、本当に悲しかった。だって私、トウジロの事が本当に好きだったの」
なまえの語り口は、不思議と俺を責めているように聞こえなかった。希望的観測とか、そういう物ではなくて、本当に淡々となまえは言葉を口にするのだ。
「だから、モクタロにぃちゃんだけが駅に立ってるのを見て、トウジロの事、少し恨んだ。でも、あの時、モクタロにぃちゃんが生きてて良かったって言ったのは本当だから」
大きな目が俺を見ている。なまえの白い手が伸びて来て、俺の顔の輪郭を確かめるようになぞる。夫婦になって初めて、俺たちはこれ程までに近い距離で向かい合っているような気がした。物理的にではない。精神的にだ。
「東京に出てくる前にモクタロにぃちゃんが『俺の嫁になろうとするな』って言ったの覚えている?」
「……おお。そんな事も、あったな」
「どう言ったら良いか分からなかった。モクタロにぃちゃんは、多分私の気持ちがずっと、トウジロのお嫁さんのままで良いよって言ってくれてたのは分かってた。でも、」
なまえが堪えるように小さく息を吸ったのが見えた。困ったような顔でなまえが俺を、俺だけを見ていた。
「でも、モクタロにぃちゃんが、私の事を大事にしてくれてるのも感じてた。だから、……だからっ」
もどかしそうに言葉を探すなまえが俺に身を寄せる。泣いていて、声は聞き取り辛いのに、俺には彼女の声だけが聞こえていた。
「トウジロの事は、っ忘れない。でも、今の私はちゃんと、モクタロにぃちゃんと、夫婦になりたいって思ってる……っ」
小さくしゃくり上げる声だけが聞こえる。腕の中にいるのは俺が愛した女だ。胸を張って何処の誰にだって自慢出来る、大切な嫁だ。
「……なまえ、」
「……モクタロ、にぃちゃん、」
大きな目が溶けるくらい泣いてしまっているなまえの眦に唇を落とすと、心臓が震えるくらい痛かった。
「好きだ。愛してる。なまえは知らなかったかも知れんが、俺だって子供の頃からお前が好きだったんだぜ」
「……そう、なの?」
「知らなかっただろ?俺はずっと、なまえの幸せを願ってた。だから、なまえが俺に嫁いで来た時に誓ったんだよ。もう二度と、なまえを悲しませねえって」
吐く息同士が混ざり合いそうな距離で俺たちは見つめあっていた。なまえの濡れた睫毛まで良く見える。綺麗だと、思った。
「なまえのためなら、何だってやる。なまえが幸せなら、それで良いって思った。俺はそのための道具だ。だから、幾らでも使ってくれよ。俺は、なまえのために生きてるんだ」
囁いた誓いの言葉になまえが困ったように眉を寄せた。ふるふると首を振ったなまえがぎゅう、と俺に抱き付いて身体を寄せた。
「道具じゃない。……なまえと一緒に生きて。トウジロの思い出と一緒に、なまえと生きて」
腕の中の温もりに、どうしてだろう。鼻の奥がつんと痛くなる。誤魔化すようになまえの首筋に顔を埋めた。柔らかな香りがする。それはあの頃と同じ香りだった。三人で、とても幸せだったあの頃と。
***
なまえは藤次郎の大切な奴だから絶対に幸せにすると決めたんだ。それが藤次郎を殺した俺の贖罪だと知っていた。俺がなまえをどう思っているかなんか関係無い。なまえが俺をどう思っているかだって。
それでも、俺たちは夫婦になって、共に生きていくんだ。そしていつか、二人でもう一度、藤次郎の墓に行ってそこで。そこで嘘偽り無い気持ちで、アイツを見送って、それから。
なまえとの新しい旅立ちを祝福して貰えたらなんて、そんな夢は俺のガラじゃねえのかな。