背負った十字架

引き揚げの船に、藤次郎は乗る事が出来なかった。俺が作戦から帰ってきた時には、藤次郎はもうそこにはいなくて、ただ空っぽの寝所があるだけだった。最期に「貸してもらった」あの紅い肌守りが俺を責めるように見ていた。

揺れる船の中で、なまえの事を考えた。考える時間は沢山あったのに、いつもなまえの事を考えていた。否、少し語弊がある。なまえの事と、これからなまえと生きていったであろう藤次郎の事を考えていた。それからそれが、もう二度と叶わない事なのだと知って、俺はもし神様とやらがいるのなら、随分と残酷な事をするのだと唾棄したい気分で一杯だった。

日本に、帰りたくなかった。きっとなまえは俺の事を詰るだろう。幼い頃に俺が好きだったあの優しげな表情を固くして、穏やかな声音を尖らせて俺を呪うだろう。幼い頃の柔らかで幸せな思い出が壊れてしまうくらいなら、死んでしまったのは俺で良かったのに。二人の内、どちらかが死ななければならないのだとしたら、それが俺だったら良かったのに。俺はそればかり考えていた。何ならもう一度戦地に戻ったって良いと思った。「菊田兄弟は、どちらも大陸の奥地で戦死した」という事実が欲しかった。

帰国の船はとても明るい雰囲気で景気が良かったけれど、俺は鉛を飲み込んだみたいに重苦しい気持ちだった。

「………………モクタロ、にぃちゃん」

先に電報で藤次郎の事は知らされていただろうに、なまえはまるでその事を初めて知ったかのように蒼白な顔で唇を震わせた。見ていられなくて視線を落とす俺に、なまえは一、二歩ふらふらと近付いた。

東京駅で、ごった返す人並みの中、でもそこには俺たち二人しかいないようだった。俺しか客車から降りて来なかった事に、なまえは動揺を隠せないようだった。それでも希望を捨てきれなかったのか、彼女の目は目当ての人間を捜すように俺の背後を揺れ動いて、それから失望したように俺を見た、気がした。その目に、俺は何て取り返しのつかない事をしたのだと今更ながらに気付いた。

「…………悪い」

それは俺がしてしまった「取り返しのつかない事」に対する謝罪だったが、それが何についてなのかは、いまいち判別がつかなかった。藤次郎を軍の学校に誘った事に対して?藤次郎の最期を伝えられない事に対して?

或いは、俺だけが生き残った事に対して?

俺の謝罪に対して、なまえは渋面を作った。その表情はどのような意味合いにも取れた。なまえの唇が開く音がして、俺は何を言われたとしても仕方の無い事だと思っていた。

「…………モクタロにぃちゃんが、……モクタロにぃちゃんだけでも、生きてて、良かった」

それなのに、震えた声は俺を責めなかった。一層の事、なまえが俺を責めてくれた方が、俺自身が俺を責める事が出来た。俺のした事は、それだけの事なのだとどうか俺を罰して詰って欲しかった。

「みんな、きっと喜ぶと思う。モクタロにぃちゃんが生きてて、良かった」

絞り出すような声で、なまえはその手を握り締めていた。昔の俺はきっとその手を取って解してやれただろう。もう二度と、それは逆立ちしたって出来る事ではないけれど。

それでも、嗚呼、終わったんだ、そう思った。不謹慎だけれど僅かにほっとしたような気がした。一番気が重い場面をやり過ごして、俺の戦争はやっと終わったのだと思った。そしてこれからはなまえが幸せになれるように働こうと思った。まだ彼女は藤次郎と祝言を挙げていなかったから、きっと俺の家より良い縁談もあるだろう。

それが蓋を開けたら、耳を疑った。

村に帰ったら、藤次郎の代わりに、俺がなまえと祝言を挙げる事になっていた。

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